HISTORICAL PERSON · 2019年没

カール・ラガーフェルド

ドイツ出身のファッションデザイナー、写真家。シャネルやフェンディのデザインを手がけた業界の重鎮で、白いポニーテールと黒いサングラスが象徴的な姿だった。

生涯
2019年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ヌイイ=シュル=セーヌ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

カール・ラガーフェルドは、1933年9月10日にドイツ北部のハンブルクで生まれ、2019年2月19日に亡くなったファッションデザイナー、写真家である。もとの姓はラガーフェルトだった。ポニーテールの白い髪、暗い色のサングラス、高い襟のシャツが、トレードマークとして知られた。父は無糖練乳を生産・輸入する企業を経営し、母エリーザベトは父と出会ったころ下着のセールスの仕事をしていた。一家は復古カトリック教会を信仰していた。

パリのオートクチュール組合が経営する学校でファッションを学び、同級生にはアルジェリアから来たイヴ・サン=ローランや、日本から来た小池千枝がいた。1955年、国際羊毛事務局が支援するデザインコンテストのコート部門で優勝し、ピエール・バルマンのアシスタントに雇われた。3年間働いてデザイン室長になり、1958年にジャン・パトゥのもとへ移って5年間オートクチュールのデザインを手がけた。生地や技術的なことは主にパトゥのメゾンで学んだと語っている。1958年7月には最初のコレクションを披露したが、このときはローランド・カールの名を使い、反応は芳しくなかった。1960年春にデザインしたスカートはその年のパリで一番短いものだったが、評価はいまひとつの状態が続いた。この時期を、うんざりして仕事を辞めようと考え、2年間を主にビーチで過ごしたと振り返っている。

1963年からはローマのブランド、ティツィアーニのデザインを1969年まで担当し、エリザベス・テイラーらが顧客に名を連ねた。1964年にはフリーランスとしてクロエと契約し、次第にコレクション全体を任されるようになった。この協業は1978年まで続き、1992年から1997年にも再びデザイナーを務めた。1965年には毛皮で知られるイタリアのフェンディと契約し、伝統的な毛皮のコートを一新して、Fを二つ組み合わせたロゴも考案した。契約は50年以上続いた。フリーランスで複数のブランドを手がけるやり方は彼が最初ではないが、成功例として以後一般化したという。1970年代には舞台衣装も手がけ、ミラノのスカラ座の仕事も含まれる。1980年代には伊勢丹とも契約し、ランジェリーや靴、セーターのデザインも行った。

1982年にシャネルと契約した。創業者ココ・シャネルが1971年に亡くなって以降、ブランドは低迷し、「シャネルは墓に戻る」とまで言われた。低迷したブランドを再興するという考えは当時一般的ではなく、友人の多くは契約しないよう忠告したが、2度目のオファーを受けて、1983年にオートクチュール、1984年からプレタポルテの協業を始めた。コレクションは高い評価を得て、販売も話題性も回復した。この手法は多くのブランドに模倣され、ディオールが1989年にジャンフランコ・フェレを、グッチが1990年にトム・フォードを迎えたのもその例とされる。

2002年にはイタリアのディーゼルとデニムのコレクションで協業し、2004年11月にはスウェーデンのH&Mとの協業を発表した。高級ブランドのデザイナーとファストファッションの協業はそれ以前にほとんど例がなく、以後H&Mは毎年著名なデザイナーやメゾンと組むようになった。同性愛者で、ジャック・ドゥ・バッシェールと、彼が1989年に亡くなるまで同棲した。2019年2月19日、ヌイイ=シュル=セーヌで姉に見守られながら85歳で死去した。亡くなるまでデザイナーの地位にあり、シャネルの後任には右腕のヴィルジニー・ヴィアールが就いた。

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