伝記
アニエス・ヴァルダは、1928年5月30日にベルギーのブリュッセル近郊のイクセルで、アルレット・ヴァルダとして生まれた映画監督である。父ウジェーヌは技師で、小アジアからのギリシャ系難民の家の出であり、母クリスティアーヌはフランス南部のセートの出身だった。5人きょうだいの3番目に生まれ、18歳のときに名をアニエスと法的に改めた。1940年に家族とベルギーを離れてセートに移り、第二次世界大戦中は家族で船の上で暮らした。そこで彫刻家のヴァランティーヌ・シュレゲルと、生涯の友情を結んだ。
パリのルーヴル美術学校で美術史を学んで学芸員を志したが、のちに写真の学校に移った。ソルボンヌ大学で文学と心理学の学位も得たが、授業は退屈で時代遅れだと感じ、パリに移り住んだことは「本当に苦痛」だったと語っている。写真家としての経歴を始め、1951年に友人ジャン・ヴィラールが国立民衆劇場を開くと、その専属の写真家に雇われた。アヴィニョンの演劇祭の舞台写真も撮り、1951年から1961年までの10年間、この劇場で働いて、ヨーロッパ各地の報道写真の仕事も得た。写真と映画の関係について、「私は写真を撮るか、映画を撮る。あるいは写真に映画を入れ、映画に写真を入れる」と語った。映画を撮るときも、撮影したいものをあらかじめ写真に撮り、ショットの模型のように使ったと振り返っている。
映画についてほとんど知らず、25歳までに見た映画も20本ほどだったが、初めて脚本を書いたとき、これを撮りたいと思った。助監督の経験も映画学校での勉強もないまま撮った長編デビュー作『ラ・ポワント・クールト』(1955年)は、編集をアラン・レネが担当した。当時のフランス映画では珍しく、スタジオのセットではなく現地での撮影を行い、素人の俳優を起用した。ヌーヴェルヴァーグに先立つ存在でありながら、その特徴を多く備えていて、「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と呼ばれることもある。『5時から7時までのクレオ』(1961年)で知られ、1965年の『幸福』でベルリン国際映画祭の銀熊賞を受けた。1985年の『冬の旅』でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞している。『ブラックパンサーズ』(1968年)、『落穂拾い』(2000年)、『アニエスの浜辺』(2008年)など、ドキュメンタリーでも知られた。
映画監督のジャック・ドゥミと1962年に結婚し、彼が死去するまで連れ添った。2人は、「カイエ派」に対して「左岸派」と呼ばれた。息子のマチュー・ドゥミは俳優、娘のロザリーは映画衣装デザイナーになった。2001年に名誉セザール賞を、2015年にカンヌ国際映画祭の名誉パルム・ドールを女性の映画監督として初めて受けた。2017年には『顔たち、ところどころ』でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされ、同年、女性の監督として初めてアカデミー名誉賞を授与された。2017年にはドノスティア賞も受けた。2010年からは画廊に所属して美術の作品も発表し、飼い猫は、カルティエ現代美術財団の庭に像が置かれている。マーティン・スコセッシは彼女を「映画の神々の一人」と評した。2019年3月29日、乳癌のため死去した。遺作は『アニエスによるヴァルダ』である。