伝記
李鵬は、1928年10月20日に上海で生まれ、2019年7月22日に亡くなった中華人民共和国の政治家である。原名は李遠芃といい、本貫は四川省成都とされる。第4代の国務院総理、第7代の全国人民代表大会常務委員長、党中央政治局常務委員などを務めた。
父の李碩勛は中国共産党初期の指導者だったが、国民党に処刑されたと言われる。初代国務院総理の周恩来と鄧穎超の夫妻は子供に恵まれず、孤児を引き取って養っており、李鵬もその一人だった。建国の元老である養父母を後ろ盾としたため、太子党の先駆けともされる。1945年11月に中国共産党に入党し、1948年から1955年までソ連に留学して、モスクワで水力エンジニアリングを学んだ。帰国後は発電所で発電作業に従事し、1966年に北京供電局へ移り、1979年に電力部に移った。電力工業部長や水利電力部副部長を歴任してテクノクラートとして活動し、1982年9月の第12回党大会で中央委員に選ばれた。
1983年6月に国務院副総理となり、1985年には政治局委員、中央書記処書記に選ばれて、国家教育委員会主任にも就いた。1987年11月、党総書記に就いた趙紫陽の後任として国務院総理に指名され、政治局常務委員に選ばれた。1988年4月9日に正式に総理に就任している。鄧小平が進めた価格改革でハイパーインフレが起きると、李鵬は趙紫陽に代わって経済政策の実権を握り、同年9月末に党指導部は「調整・引き締め」を決めた。ただし李鵬も、総理就任の報告では価格改革の必要性を訴えていた。
国内政策では一貫して強硬策を主張した。1989年5月20日、中国中央テレビで戒厳令を公布し、その後に第二次天安門事件が起きた。趙紫陽が北朝鮮を訪問していた間、留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は学生の民主化運動を動乱と認定したとされる。李鵬は趙紫陽と決裂し、「北京屠夫」「六四屠夫」と非難された。事件後は総書記の人選で江沢民が選ばれ、李鵬が候補に挙がった形跡はなかった。保守派の影響力が強まって改革開放路線が停滞すると、鄧小平は1992年の旧正月に深圳などの経済特区を訪れ、路線の加速を訴えた(南巡講話)。以後、改革派が勢いづき、李鵬ら保守派は影響力を失っていった。
1993年の任期での退任が大勢の見方だったが、続投が決まった。候補が李鵬だけで事実上の信任投票となり、反対票は12.5パーセントの210票に達した。1994年には国内の大きな反対を押し切って三峡ダムの着工を強行した。家族に電力会社の関係者が多く、批判を集め、工事では巨額の賄賂や汚職があったとも言われる。1998年3月に朱鎔基に総理の座を譲って全国人民代表大会常務委員長に就き、2002年4月には日本を訪問して、日中間の友好関係について発言した。2003年に退任して政界を引退した。
2008年2月5日に脳梗塞を起こして北京の病院へ搬送されたが、半年後には高速鉄道に乗る姿が報じられた。2010年6月には、天安門事件直前の動向をまとめた李鵬の手記が香港で出版されると報じられたが、直前に差し止められた。2017年10月の中国共産党第19回全国代表大会の開幕式にも姿を見せたが、2019年7月22日、肺癌により90歳で死去した。長男の李小鵬は太子党の一員で、山西省の省長を務め、娘は電力会社の会長を務めた人物である。
同じ年に亡くなった人物
- スタンリー・ドーネン (2019年没)
- ヌオン・チア (2019年没)
- フェルナンド・リックセン (2019年没)
- ロバート・ライマン (2019年没)
- デイヴィッド・ヘルド (2019年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・ローゼン (1935年没)
- 徐光啓 (1633年没)
- 雍正帝 (1735年没)
- 董必武 (1975年没)
- 丘長春 (1227年没)