HISTORICAL PERSON · 2019年没

ユーリ・ルシコフ

ソ連およびロシアの政治家。モスクワの第2代市長を18年間務めた。大学卒業後は化学工業の研究所や省で頭角を現した。

生涯
2019年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ユーリ・ミハイロヴィチ・ルシコフは、1936年9月21日にモスクワで生まれ、2019年12月10日に死去した、ソビエト連邦およびロシアの政治家である。モスクワ市長(第2代)を18年間務めた。大工の家庭に生まれたとされ、英語版の記述では、父ミハイル・アンドレーエヴィチはトヴェリ州の小さな村から1930年代にモスクワへ移り住んだという。

1958年にモスクワ石油ガス化学工業大学を卒業し、勤務先のプラスチック研究所で有能さを買われて化学工業省の部長に抜擢された。1968年にソ連共産党に入党し、のちに生産合同「ネフチヒムアヴトマーチカ」の総支配人となった。1990年4月、モスクワ市ソビエト議長となったガヴリール・ポポフが、ボリス・エリツィンの推薦を受け、ルシコフをモスクワ市執行委員会議長に推した。1991年8月のクーデター後には、内閣に代わって設けられた委員会の副議長(副首相)に加わり、国内商業、対外経済関係、社会政策、農工コンプレックスなどを担当したが、12月までの短い期間だった。同年6月にはポポフ市長からモスクワ市政府の首相に指名されている。

ポポフの辞任後の1992年6月、エリツィン大統領によってモスクワ市長に任命された。1996年6月の市長選挙では90パーセントを超える得票率で当選した。1998年11月に地方首長を集めて政治ブロック「祖国」を結成し、1999年8月にエフゲニー・プリマコフの「全ロシア」と合同して「祖国・全ロシア」をつくった。国民の支持が集まると見られたが、クレムリンの肝いりで与党「統一」が結成され、12月の下院選挙では、国営メディアによる中傷もあって第三党にとどまった。同時の市長選挙では71パーセントの得票率で再選された。その後は政権に近づき、「祖国・全ロシア」を「統一」と合流させて「統一ロシア」を結成し、党最高会議の共同議長に就いた。2003年の下院選挙で統一ロシアは第一党となり、同日の市長選挙でルシコフは75パーセントの得票率で三選された。

市長としては行政手腕を高く評価された。モスクワには外国から巨額の投資が流れ込み、その額はロシア全体の5割に相当したとされる。モスクワは社会主義国の首都から、資本主義経済下の大都市へと姿を変えた。2001年4月には市民の63パーセントが市長に好意的な見方を示したが、評価は徐々に下がり、2009年10月の世論調査では36パーセントにとどまった。一方、旧ソ連の名所であるロシア・ホテルなどが改築や取り壊しの対象になり、ザモスクヴォレチエなど多くの地区が大きく変わったことには批判があった。1999年には老朽化した5階建て集合住宅1,722棟を2010年までに取り壊す計画を始めた。秘密警察チェーカーの創設者ジェルジンスキー像の再建や、スターリンのポスターの陳列計画を進めたことも、国内外で物議を醸した。妻エレーナ・バトゥリナの事業をめぐる汚職の疑いも報じられた。

長期政権の中でクレムリンとの対立が深まり、2010年9月28日、メドヴェージェフ大統領は「信頼の喪失」を理由に彼を解任した。解任に先立つ数週間、ルシコフはメドヴェージェフの指導力に疑問を呈しており、国営テレビは夏の泥炭火災への対応を批判していた。後任には副首相のセルゲイ・ソビャーニンが任命された。ルシコフは統一ロシアからの離党を表明した。晩年は家族とともに主にロンドンに滞在してクレムリンと距離を置き、2011年にはアレクセイ・ナワリヌイに同情的な発言をした。2019年12月、手術を受けていたドイツのミュンヘンで83歳で死去した。

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