伝記
ホセ・アントニオ・レジェス・カルデロンは、1983年9月1日にスペインのセビリア県で生まれ、2019年6月1日に35歳で死去したサッカー選手である。ポジションはMFとFWで。ヒターノ(ロマのスペインにおける外名)の両親のもと、セビリア郊外のウトレラに生まれ、10歳でセビージャFCの下部組織に入った。
1999-2000シーズン、2部のセビージャ・アトレティコでプレーしながら、レアル・サラゴサ戦で16歳にしてトップチームデビューを果たした。2001年夏にトップチームが1部に昇格すると、2001-02シーズンは開幕から先発を任され、レアル・バリャドリード戦でドリブルの独走から決めた。4シーズンで86試合に出場して22得点を記録し、他クラブの関心を集めて、2004年冬の移籍期間に1050万ポンドの移籍金でアーセナルに移った。2004年2月1日のマンチェスター・シティ戦でデビューし、FAカップのチェルシー戦で初めて相手ゴールを決めた。2004-05シーズンは開幕から6試合連続で得点したが、中盤戦以降は不振に陥り、両親や兄弟とイングランドに移り住んでいたにもかかわらず、ロンドンの気候や異文化への適応に苦しみ、ホームシックにかかっていると報じられた。2005年のFAカップ決勝では、同大会の決勝の歴史で2人目となる退場者になった。それでもクラブと6年契約を結び直し、2005-06シーズンはチャンピオンズリーグ決勝まで進んだが、FCバルセロナに1-2で敗れて準優勝に終わった。
2006年夏の移籍市場が閉じる直前、レアル・マドリードにレンタル移籍し、シーズン最終戦のマジョルカ戦では途中出場して2得点を挙げ、優勝に貢献した。2007年7月にはアトレティコ・マドリードと契約したが不調に終わり、2008年8月にベンフィカへレンタルで移った。2009年夏にアトレティコへ戻ると、2010年のヨーロッパリーグで勝ち上がりに貢献し、同年8月の欧州スーパーカップではインテル・ミラノを相手に先制点を決めて、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。しかし2011-12シーズン途中にグレゴリオ・マンサーノ監督との確執からベンチに座ることが多くなり、移籍を希望した。
2012年1月、移籍金350万ユーロで8年ぶりにセビージャへ復帰した。バックアッパーとして、またチームの精神的支柱として、ヨーロッパリーグ3連覇に大きく貢献した。2015-16シーズンには虫垂炎の手術などの影響もあって、契約自動延長の目安となる出場時間に届かず、退団となった。その後はエスパニョール、2部のコルドバCF、中国2部の新疆天山雪豹、2部のエストレマドゥーラUDと渡り歩いた。
スペイン代表では、2003年9月のポルトガルとの親善試合でデビューし、2006年のワールドカップには出場したが1試合だけだった。国際Aマッチは21試合4得点である。
2019年6月1日、故郷のウトレラの高速道路でメルセデス・ベンツを運転中に右後方のホイールが破損して事故を起こし、車が炎上した。本人と同乗の親族1名が死去した。時速237キロメートルに達していたことが捜査で判明し、タイヤの空気圧が不十分なまま超過速度で走ったためにタイヤが破裂したと結論付けられた。事故の直後のチャンピオンズリーグ決勝では、キックオフ前に黙祷が行われた。息子の同名のホセ・アントニオ・レジェスは、同月にレアル・マドリードの下部組織に入団している。2020年にセビージャがヨーロッパリーグで優勝した際、選手たちはレジェスの姿をプリントしたシャツを着用した。
同じ年に亡くなった人物
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- リック・オケイセック (2019年没)
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- ロバート・フランク (2019年没)
- メアリー・ウォーノック (2019年没)
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- Juan de la Cueva de Garoza (1612年没)
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