伝記
フェルナンド3世は、一二〇一年に生まれ、一二五二年五月三十日に没したカスティーリャ王である。在位は一二一七年から一二五二年に及ぶ。父はレオン王アルフォンソ9世、母はカスティーリャ女王ベレンゲラで、カスティーリャ王アルフォンソ8世の孫にあたる。父はポルトガル王女テレサと結婚していたが、教皇ケレスティヌス3世の介入で婚姻を無効とされ、一一九七年にベレンゲラと再婚した。しかし、この結婚も次の教皇インノケンティウス3世の介入で無効となり、母はレオンの宮廷を去り、フェルナンドは父のもとに残された。
一二一七年、母方の叔父であるカスティーリャ王エンリケ1世が跡継ぎなく没すると、甥である彼が、母を中継ぎとする形で王に即位することになった。母が派遣した使者にレオンからカスティーリャへ連れ出されたが、これは、父がサアグン協定を口実に継承を妨げるのを避けようとした母の画策とされる。到着してすぐ母から王位を譲られ、それを認めない父と大貴族のララ家の抗議に苦しんだ。一二三〇年に父が亡くなると、レオンの継承者であった二人の異母姉を説得し(母が交渉に当たったともいう)、レオン王位も継いで、レオンのカスティーリャへの併合を果たした。
この頃、北アフリカのムワッヒド朝をはじめとするイベリア半島南部のイスラム勢力は衰えていた。ムワッヒド朝のカリフが子のないまま一二二四年に没して内乱が起こり、分裂したためである。半島でも小君主たちが台頭して互いに争った。フェルナンドはこの分裂につけ込み、一二二四年六月に母と諸侯にムワッヒド朝攻撃を宣言し、調略と武力を使い分けて進めた。一二二五年にはハエンを攻めて落とせなかったが、他の町を陥落させ、身代金を払った住民以外を虐殺して、グラナダなど他の住民を恐れさせた。一二三六年、コルドバを包囲して降伏させ、六月三十日に入城した。この征服では息子の王太子アルフォンソ、のちのアルフォンソ10世が活躍した。
その後も、一二四三年に王太子がムルシアを降伏させ、一二四四年には、アラゴン王ハイメ1世と両国の獲得領土の境界線を取り決めた。同年にグラナダのムハンマド1世が反旗を翻すと、すぐさま領土に侵攻し、一二四六年一月から包囲を始めて臣従を誓わせ、ハエンの引き渡しと毎年十五万マラベディの貢納を認めさせた。次の標的セビリアは、同年の政変で孤立していた。周辺の都市を一年かけて降し、ブルゴスの商人が回送した艦隊で水路を封鎖して、一二四七年七月頃から包囲した。飢餓に苦しんだ市民は戦意を失い、一二四八年十一月二十三日にセビリアは降伏し、住民は退去した。フェルナンドは十二月二十二日に入城した。これによりレコンキスタは事実上の終結を迎えた。
戦後は所領の分配や植民に取り組み、北アフリカへの侵攻を企てたが、一二五二年に遠征の途上のセビリアで病没した。降伏条件は寛大で、抵抗しなかった住民には持ち物を持って去ることを許した。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の上に立つ、三宗教の王を理想としたといい、息子のアルフォンソ10世が造らせた墓廟には、カスティーリャ語、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語の墓碑銘が刻まれた。一方で、急速な拡大は貴族の強大化と戦費の重さを招き、王国の基盤を脆くしたとも指摘される。その功績から列聖され、聖王と称えられた。
同じ年に亡くなった人物
- ザベル (キリキア・アルメニア王国女王) (1252年没)
- スヴャトスラフ3世 (1252年没)
- アーベル (デンマーク王) (1252年没)
- ソルコクタニ・ベキ (1252年没)
- ヴェローナの聖ペトロ (1252年)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド6世 (ナスル朝) (1362年没)
- ホセ・モニーノ (1808年没)
- Manuel Fal Conde (1975年没)
- ムウタディド・ブン・アッバード (1069年没)
- アルフォンソ10世 (カスティーリャ王) (1284年没)