伝記
アルケシラオス1世は、キュレネの第2代の王で、バッティアス朝の第2代の王である。古代ギリシアの植民市キュレネとキュレナイカを治めた。没年は紀元前583年とされるが、紀元前574年とする説もある。
父はキュレネの最初の王バットス1世である。父方の祖父母は、テラ島の貴族ポリュムネストスと、クレタ島の王女だったとされるフロニメである。若いころの事績は伝わっていない。紀元前600年に父が死ぬと、その後を継いで王位に就いた。
その治世についての情報はきわめて乏しい。古代の史料でこの王について語るのはヘロドトスだけで、その『歴史』第4巻は、アルケシラオスの治世が16年間続いたこと、そしてこの王の時代にキュレネの人口がバットスのもとで集まった最初の入植者の数のまま変わらなかったことを伝えている。ただし、フランソワ・シャムーは、植民市の初期の人口が、バットスの仲間とそのリビア人の妻だけに限られていたとは考えにくいと見ている。ギリシア人の入植者は二隻の五十櫂船で渡ってきたので、200人を超えなかったという。シャムーは、バットス2世の時代までキュレネのギリシア系の住民は、もっぱらテラ島の出身者だったと考えている。これに対して歴史家のミケラ・コスタンツィは、キュレネで出土した前6世紀末の陶器の産地が多様であることや、バットス1世の遠征隊にラケダイモン人とリンドス人がいたという古代の文献の記述などから、テラ島の人々だけではなく、スパルタ人をはじめ他の土地から来たギリシア人も加わっていただろうと推定している。
シャムーは、アルケシラオスの人柄を父バットスと比べて色の薄いものとみなし、その治世を父の治世の延長線上に置くべきだとしている。当時のキュレネは小さなギリシア人の植民市で、住民は地元のリビア人と、クレタ島やギリシア本土の都市との交易を営んでいたという。人口が少なかったため、アルケシラオスは領土の拡大を目指さず、経済の基盤づくりに力を注いだとされる。羊の飼育が始まり、陶器をつくる工房が建てられた。このころギリシア人はシルフィウムという植物の薬効を知り、これをリビア人からギリシア本土の製品と交換して手に入れた。こうしてキュレネはリビア人とほかのギリシア人とを結ぶ重要な中継の港になっていったという。
アルケシラオスは紀元前583年に死に、父の墓の近くに葬られた。王位は息子のバットス2世が継いだ。バットス2世はのちに「幸福な人」を意味するエウダイモンのあだ名で知られる。ほかにクリトラという娘がいた。
同じ年に亡くなった人物
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