HISTORICAL PERSON · 1688年没

フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)

「大選帝侯」と称えられたブランデンブルク選帝侯。プロイセン公国をポーランドの支配から解放し、フェールベリンの戦いでスウェーデンを破った。常備軍や税制を整え、ユグノー難民を受け入れた。

生涯
1688年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州 / ポツダム市宮殿)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン王宮)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ブランデンブルク州)

伝記

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公である。1620年2月16日、ベルリン近郊のケルンで、選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムと、プファルツ選帝侯の娘エリーザベト・シャルロッテの間に生まれた。プロイセン公国をポーランドの支配から解放し、フェールベリンの戦いなどでスウェーデン勢力を領内から駆逐したことから、大選帝侯と称えられる。

少年期は三十年戦争の最中で、1627年に戦火を逃れてキュストリンへ移った。11歳の夏にスウェーデン王グスタフ・アドルフと会って強い印象を受け、王は彼の憧れの英雄となったという。1634年から1638年までオランダに留学した。理論的な学問にはあまり関心を示さず、湿地を肥えた農地に変え、経済を伸ばすオランダ人のやり方に学び、自領を新しいオランダにしたいと考えるようになった。商船隊や軍艦隊を持ち、遠い土地に植民地を築くことを夢見たとされる。亡命中のボヘミア王フリードリヒ5世の一家と接したことで、カトリックと皇帝への深い不信も抱いたという。1640年、父の死去により20歳で選帝侯となったが、ブランデンブルクが不穏だったため、当面はプロイセンに留まった。1642年のスウェーデン女王クリスティーナへの求婚は破談となり、1643年にブランデンブルクへ戻って臣下の忠誠の誓いを受けた。1646年にオランダ総督の娘ルイーゼ・ヘンリエッテと結婚した。

1648年のヴェストファーレン条約で、ポンメルンの継承権を主張したものの、スウェーデンが西部を、ブランデンブルクはあまり価値のない東部を得た。この時から軍備の拡張を政策に掲げ、1653年に地方議会からユンカーの特権の保障と引き換えに課税権の承認を受け、常備軍に必要な税制の整備を始めた。課税は反対を受けつつも成功し、のちの戦いの基礎となった。1655年にプロイセン公国の宗主国をポーランドからスウェーデンへ替え、翌年のワルシャワの戦いでスウェーデンとともにポーランドとロシアの連合軍を破って、ラビアウ条約でプロイセンの主権を獲得した。1660年のオリヴァ条約で最終的な支配権を得ると、ケーニヒスベルクの暴動を鎮圧して住民に忠誠を誓わせた。直接税と間接税による恒常的な財源と官僚機構の整備も進み、ブランデンブルク=プロイセンは北東ヨーロッパでの地位を築いた。

1672年に仏蘭戦争が始まると、はじめフランスと同盟していたため中立だったが、オランダと条約を結んで離反した。1673年にテュレンヌに領土を攻められて和睦し、翌年に再びフランスに対抗したが、1675年1月にテュレンヌの奇襲を受けて敗走した。この後、フランス王ルイ14世と結んだスウェーデンがドイツに侵入すると、北へ転戦し、1675年6月18日にベルリン近郊のフェールベリンでスウェーデン軍を破った。1678年には艦隊を率いてリューゲン島などに遠征し、のちにはギニアに植民地を築いて奴隷貿易にも携わった。1679年のサン・ジェルマンの講和でポンメルンを返還したが、領内からスウェーデンの影響力を排除することには成功した。

1685年10月29日、ポツダム勅令を発して、フランスから流入したユグノー難民に避難所を与えた。約2万人がブランデンブルクに移り、うち5千人はベルリンに住んで、フランスの技術や文化を伝えた。翌年にはアウクスブルク同盟を結んだ。1688年5月9日、68歳でポツダムで没し、息子のフリードリヒ3世が跡を継いだ。残した常備軍は3万に上り、その税制や宗教的寛容とともに、のちのプロイセン王国の基礎となった。

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