HISTORICAL PERSON · 437年没

Possidius of Calama

ヌミディア属州カラマの司教。アウグスティヌスと約40年の親交を保ち、その伝記と著作目録を著した。ドナトゥス派と対立して命を狙われ、後にアリウス派のヴァンダル王ガイセリックに教区を追われた。

生涯
437年没
死亡地
アルジェリア(ゲルマ県 / ゲルマ)
出生地
—
出典
世界地図
アルジェリア(ゲルマ県)

伝記

ポシディウスは、5世紀の北アフリカで活動したカラマの司教であり、ヒッポのアウグスティヌスの友人として知られる。カラマはローマ属州ヌミディアにあった。生没年は分かっていないが、アウグスティヌスの伝記と著作目録を著した人物として名を残している。

彼自身の記述によれば、アウグスティヌスとは40年にわたって途切れることのない友情を保った。また自分のことを第三者のように語りつつ、アウグスティヌスの修道院の聖職者の一人であったことを明かしている。司教に昇ったのは、ティユモンによれば397年ごろとされる。司教となるとアウグスティヌスにならってカラマに修道院を設けたが、この地は党派の争いに揺れる土地であった。

カラマではドナトゥス派との対立が激しかった。ポシディウスはカルタゴで開かれた会議で、カラマのドナトゥス派司教クリスピヌスに公開討論を挑んだが、相手は応じなかった。404年にはドナトゥス派の一団が彼を家から引きずり出して殴り、命を脅かした。過激派は、彼が訪れていた家に火を放ったこともあった。クリスピヌスに対しては訴訟が起こされ、責任のある司祭を罰することを拒んだ彼は異端として有罪となり、重い罰金を科された。しかしポシディウスのとりなしによって、罰金は取り立てられなかった。408年にはカラマで異教徒が起こした暴動により、あやうく命を落としかけている。この事件については、アウグスティヌスの書簡90、91、93番に記されている。

その後も教会の要職を担った。407年にはアウグスティヌスら他の5人の司教とともに、ある教会上の問題を裁く委員会に加わったが、その内容は分かっていない。409年には、ドナトゥス派に対する皇帝の保護を求めてイタリアへ派遣された4人の司教の一人となった。411年の討論会では、カトリック側を代表する7人の司教の一人に選ばれた。416年のミレウム教会会議にも出席し、ヌミディアの59人の司教がペラギウス主義への対処を求めて教皇インノケンティウス1世に宛てた書簡の場に加わった。さらにアウグスティヌスら他の3人の司教とともに、同じ問題で教皇へ重ねて書簡を送っている。アウグスティヌスとドナトゥス派のエメリトゥスとの会談にも同席した。ゲルマン系のヴァンダル人がアフリカに侵入すると、ポシディウスはヒッポへ逃れ、430年のアウグスティヌスの死に立ち会った。437年には、プロスペルの年代記によれば、ほかの2人の司教とともに、アリウス派であったヴァンダル王ガイセリックに迫害され、司教座から追われた。彼はその後まもなく、イタリア南部のアプリアで亡くなったという。ヴァンダルの侵入から司教座を追われるまで、彼は戦乱の中を生きたことになる。なお、生年と同じく没年も確かではなく、437年は迫害が記された年である。

著作のうち『聖アウグスティヌス伝』は、カルタゴが陥落した439年より前に書かれたもので、アウグスティヌス著作集の諸版に収められている。この伝記はユルテルの『教父小著作集』にも印刷されている。著作目録(インディクルス、「小さな索引」の意)は、ミーニュ版アウグスティヌス著作集の最終巻と、ベネディクト会版の第10巻に収められている。1672年8月19日、教皇クレメンス10世は、同じく北アフリカの司教でアウグスティヌスの友人であったタガステのアリピウスとともに、ポシディウスへの崇敬を承認した。

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