伝記
インノケンティウス11世は、1676年から1689年まで在位したローマ教皇である。本名はベネデット・オデスカルキで、1611年5月16日にイタリアのコモに生まれた。高徳の聖職者として知られ、教皇庁の綱紀粛正に取り組む一方、フランス王権と結びついたガリカニスムや、静寂主義、弛緩説などに対して論陣を張って争った。
父はコモの貴族リヴィオ・オデスカルキ、母はパオラ・カステッリ=ジョヴァネッリである。オデスカルキ家は小貴族ながら、事業に意欲的な家で、1619年に兄がジェノヴァで三人の叔父とともに銀行を興し、金貸し業で成功した。ベネデットは文法と文学の学びを終えた15歳でジェノヴァへ移り、家業の見習いとなった。1626年に父が死に、イエズス会の学院で人文学を学んだ。1630年には疫病が流行し、母を亡くしたが、自らは辛うじて命を取り留めた。1632年から1636年の間にローマ、次いでナポリへ移り、市民法を学んだ。その後、教皇庁の書記官、マルコ・ディ・ローマの代理、マチェラータの総督などの職を歴任し、1640年代に枢機卿に挙げられた。フェラーラへ教皇使節として赴いた際は、飢饉に苦しむ人々を助けたため、教皇から貧しい人々の父として紹介されたという。1650年にはノヴァーラの司教となり、司教区の収入をすべて貧しい人や病人の救済に使った。1656年には教皇の許しを得て、弟に司教職を譲り、ローマへ移った。こうした経歴の中で、その飾らない人柄と無欲さ、徳の高さによって高い評価と信頼を得ていった。
1669年の教皇選挙でも有力な候補だったが、フランス政府の拒否で退けられた。クレメンス10世の没後にもルイ14世は反対するつもりでいたが、枢機卿もローマの民衆も一致して彼を望んでいると見て、不承不承フランス派の枢機卿に黙認を指示した。こうして1676年9月21日に教皇に選ばれ、自分を枢機卿にしてくれたインノケンティウス10世にちなんで、インノケンティウス11世を名乗った。
就任するとすぐ、教皇庁の財政の立て直しと、高位聖職者の不正の根絶に取り組んだ。不要な役職を削減し、聖職者や信徒の職員の規律を高め、縁者の登用を厳しく戒めた。自らも質素に暮らし、枢機卿にも同じことを勧めた。その結果、就任時に17万スクードに達していた年間の赤字は解消され、数年で収入が支出を上回ったという。エスコバルやスアレスらの教説と弛緩説に類する意見を弾劾し、これを教える者は破門も辞さないと示した。静寂主義の神学者たちとは疎遠ではなかったが、検邪聖省の圧力に屈して、モリノスの68の命題を誤りとして断罪した。
政治面では、オスマン帝国軍のウィーン包囲に際してヨーロッパ諸国の団結を進め、多くの軍資金を負担した。この支援が帝国軍の撃退につながったとされ、教皇の主導で神聖同盟が結ばれた。大トルコ戦争は教皇の死後、1699年のカルロヴィッツ条約で終結した。ハンガリーでは、この支援により今も「ハンガリーの救い主」と呼ばれる。一方、ルイ14世とはガリカニスムをめぐり、長い戦いを強いられた。
長い闘病の末に1689年8月12日に没すると、すぐに列福の調査が始まったが、フランスの反対で中断された。20世紀に入って再開され、1956年10月7日に教皇ピウス12世によって福者に挙げられた。記念日は8月12日である。
同じ年に亡くなった人物
- マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1654-1689) (1689年没)
- ジョージ・ジェフリー (1689年)
- ドロテア・ゾフィー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク (1689年没)
- ルイーザ・クリスティーナ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1689年)
- マリー・ルイーズ・ドルレアン (1689年没)
同じ地域に関係する人物
- エミリオ・コロンボ (2013年没)
- John Berchmans (1621年没)
- ユリウス1世 (ローマ教皇) (352年没)
- ペラギウス1世 (ローマ教皇) (561年没)
- マリオ・プラーツ (1982年没)