伝記
カーブース・ビン・サイードは、1940年11月18日に生まれ、2020年1月10日に没したオマーンの国王である。1970年7月23日から2020年1月10日まで在位し、首相、国防相、外相、財務相も兼ねた。18世紀から続くブーサイード家の第14代君主にあたるとされる。
代々のスルタンを出してきた南部の港町サラーラの出身で、幼少期を同地で過ごした。10歳のころには宮殿の女性用の区画で常に監督され、外部の人との接触はほとんどなかったという。先代スルタンの一人息子であった。その後、インドのプネーの私立学校で初等・中等教育を受け、16歳でイギリスの私立学校に送られた。20歳でサンドハースト王立陸軍士官学校に入り、1962年9月に卒業。イギリス軍に配属されて西ドイツに1年間赴任した。退役後は地方行政学を学び、世界各地を巡ったのち、1966年に帰国した。
ところが帰国後は、父王サイード・ビン・タイムールによってサラーラの宮殿に事実上軟禁され、父の顧問から説明を受ける機会を除いて政治への関与を認められなかった。この間はイスラム教とオマーンの歴史を学んだ。保守的な父の政策に反対し、国外の協力者と連携してクーデターを計画していたとされる。1970年7月23日、宮廷クーデターで父を追放して即位した。この政変はイギリスの支援を受けたとされる。即位後は国名を「マスカット・オマーン土侯国」から「オマーン国」に改め、11月18日の誕生日と、即位した7月23日の「ルネサンスの日」を祝日とした。
政治体制は絶対君主制のまま、全権限を自らに集中させた。法律はすべて王室政令として発布され、行政官や裁判官の任免権も握った。一方でイバード派の伝統を守りつつ、国王主導の近代化を進めた。即位直後には、イランのパフラヴィー、ヨルダンのフセイン1世、イギリス軍の支援を得て反乱を鎮圧している。1971年10月には鎖国政策を放棄して国際連合に加盟し、1980年にはアメリカ合衆国と防衛協定を結んだ。他のアラブ諸国と違ってイランとも良好な関係を保ち、米国とイランの仲介者として動いたという。湾岸協力会議には1981年5月25日の設立と同時に加盟した。即位時のオマーンは道路や医療、教育が乏しい国だったが、石油収入で学校や病院、道路網、通信網、電力が整えられた。
2011年1月17日、アラブの春の影響を受けた反政府デモがマスカットで起こり、各地に広がった。国王は雇用創出や失業手当の支給、公務員の給与引き上げなどを決め、側近を含む閣僚20名を罷免し、議会に立法権と行政監査権を与えた。デモはこれ以降、鎮静化した。1976年にターレク王子の娘ナワールと結婚したが1979年に離婚し、子はなく、後継者も公には指名しなかった。晩年はドイツやベルギーなどで療養し、2020年1月10日に79歳で崩御した。王族評議会は翌11日、いとこのハイサム・ビン・ターリクを指名し、新国王は同日即位を宣言した。クラシック音楽の愛好家で、1986年に結成したオーケストラは外遊にも同行することが多かった。特にパイプオルガンを好み、王立オペラ劇場には「ロイヤル・ソロ」と名付けられた世界最大のパイプオルガンが設置されている。オマーン・リアルの紙幣にはすべて肖像が使われている。親日家としても知られ、東日本大震災では1,000万ドルの義援金を日本に提供した。
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- ミシェル・イダルゴ (2020年没)
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