HISTORICAL PERSON · 2020年没

ヴァレリー・ジスカール・デスタン

フランスの政治家。1974年から1981年まで大統領を務め、社会問題でリベラルな姿勢を示し、TGVなどの大規模なインフラ計画を立ち上げた。

生涯
2020年没
死亡地
フランス共和国(ロワール=エ=シェール県 / オートン)
出生地
ドイツ連邦共和国(コブレンツ)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワール=エ=シェール県)

伝記

ヴァレリー・ジスカール・デスタンは、1926年2月2日に生まれ、2020年12月2日に没したフランスの政治家である。1974年5月から1981年5月まで、フランスの大統領を務めた。正式な名はヴァレリー・マリー・ルネ・ジョルジュ・ジスカール・デスタンという。

1926年2月2日、ドイツのコブレンツで、フランス人官吏エドモン・ジスカール・デスタンの子として生まれた。父エドモンはもともと姓が「ジスカール」だった。母は中世以来の貴族の家の出だったが、1922年に母の実家であるエスタン家の男系が断絶した。当時のフランスでは、共和制を支持する貴族の家系はむしろ保護すべきだという考えが強まっており、議会はエスタン家嫡流に近い女性を妻にしていたエドモンに家の継承を要請した。こうして旧来の「ジスカール」に「エスタン」を重ね、「ジスカール・デスタン」を名乗るようになったのである。ヴァレリーの誕生はその4年後であった。
青少年期は名門校に学んだ。ナチス・ドイツによるフランス占領の時代で、バカロレア資格を得たあとは準備級に戻らず、レジスタンス運動に身を置いた。戦後はエコール・ポリテクニーク(理工科学校)と国立行政学院に学んだ。卒業後はエドガール・フォール首相のもとで政策スタッフとなり、1956年1月の総選挙で独立農民派から国会議員に当選した。第五共和政の成立で党首ピネーが経済財務相として入閣すると、金融担当の秘書官となった。1962年1月に経済財政相として初入閣したが、ヨーロッパ政策をめぐり独立農民派主流と対立して離党し、独立共和派を結成した。1966年1月に解任されたものの、1969年6月から1974年5月まで再び経済財務大臣を務めた。

1974年4月に大統領ポンピドゥーが急死すると、ドゴール派主流のシャバン=デルマスに対抗して、5月の大統領選挙に出馬した。独立共和派や中道派野党のほか、シャバン=デルマスと対立していたジャック・シラクの支持も取りつけた。第1回投票では左翼統一候補のフランソワ・ミッテランに後れを取ったが、シャバン=デルマスを上回る票を得て、決選投票でミッテランを破った。48歳での就任は、当時のフランスで3番目の若さであった。外交では、西ドイツ、イタリア、日本、アメリカなどの首脳にサミット(先進国首脳会議)を提案し、1975年11月にランブイエで第1回を開いた。石油危機への対応などが話し合われ、西側先進国の結束を高めたことなどから、サミットはその後毎年開かれるようになったという。内政では、参政権の年齢を21歳から18歳へ引き下げ、TGVの建設を進めた。

中央アフリカ帝国のボカサ1世は、ジスカール・デスタンに莫大な贈賄工作をしたと後に告白している。ボカサは政権を追われてフランスに亡命し、復権の支援を求めたが、よい返事を得られず、贈賄を暴露した。これで人気は急落し、1981年5月の大統領選挙でミッテランに48.2パーセントの得票で敗れる一因になったという。

退任後は回顧録で高い評価を得て、中道右派の論客として存在感を示した。1986年3月から2004年4月までオーヴェルニュ地方議会議長を務め、2002年2月には「欧州の将来に関する協議会」の議長に推され、欧州憲法条約の起草を担った。アカデミー・フランセーズの会員にも選ばれた。2020年9月に肺の感染症で入院して退院したが、11月に再入院し、12月2日、新型コロナウイルス感染症のため、自宅で94歳で死去した。94歳と304日を生きた、史上最長寿のフランス大統領であった。

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