伝記
ヴァランティーヌ・ヴィスコンティは、オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワの妃である。イタリア語ではヴァレンティーナ・ヴィスコンティと呼ばれ、ミラノの公女である。1366年とも1368年ともいわれる年に、ミラノまたはパヴィアで生まれた。父はミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ、母はフランス王ジャン2世の娘イザベル・ド・フランスで、夫のルイは母方の従弟にあたる。母は生まれて間もなく亡くなり、パヴィアの城で、祖母のブランシュ・ド・サヴォワに、父方の叔母ヴィオランテとともに育てられた。祖母は善良で慈善を行うことで知られ、敬虔で教養もあり、ヴァランティーヌの教育に役割を十分に果たした。
1380年代から、縁談はいくつも持ち上がった。最初は、大叔父ベルナボの息子カルロ・ヴィスコンティとの結婚が決まったが、教皇の特免が与えられたのに、破談になった。次には、ナポリ王位を狙うアンジュー公ルイ1世が、結婚相手の候補となった。さらに、ローマ王ヴェンツェルの異母弟であるゲルリッツ公ヨハンとの話もあったが、いずれも実らなかった。父は、娘の結婚を通じて、イタリアでの力を固めようとしていた。最終的に、フランス王シャルル5世の子で、当時トゥーレーヌ公だったルイ・ド・フランスとの結婚が定まった。百年戦争で財政が苦しいフランス王家に対して、富裕なヴィスコンティ家が戦費を援助する利点もあった。持参金は45万フロリンで、父にほかの跡継ぎが生まれなければ、父の領地をすべて受け継ぐことも定められた。ヴァランティーヌは、契約ののちも夫のもとへは行かず、1389年のルイのパリ入城の際に、ようやくムランで婚礼があらためて挙げられた。
ヴァランティーヌは、パリではナヴァールの館に住んだ。若い夫妻は華やかな暮らしを送り、詩人ウスタシュ・デシャンはヴァランティーヌのために詩を捧げた。夫妻のあいだには10人の子が生まれたが、6人は幼くして亡くなった。成人したのは、オルレアン公となったシャルル、ヴェルテュ伯フィリップ、アングレーム伯ジャン、エタンプ伯リシャールの妻となったマルグリットである。長男のシャルルは、のちに詩人として名を知られた。1392年から狂気にとらわれたシャルル6世は、自分の妃のイザボー・ド・バヴィエールよりも、ヴァランティーヌを大切にしたともいわれる。一方、イザボーは夫のルイの愛人とも噂され、ヴァランティーヌは宮廷で陰謀を企てたとして、イザボーに疎まれた。ヴァランティーヌはサン・ポルから逃げ、パリを離れなければならなくなった。ヴァランティーヌがパリにいたのは1396年までの7年間で、その年、ルイは妻を宮廷から遠ざけ、妻はオルレアン公領へ移った。
1407年、夫のルイは、ヴァランティーヌと夫の共通の従弟であるブルゴーニュ公ジャンの配下に暗殺された。ヴァランティーヌは、その1年後の1408年12月4日にブロワで亡くなった。のちに、シャルルの息子であるフランス王ルイ12世は、ヴァランティーヌの血筋を根拠に、ヴィスコンティ家の継承権を主張して、イタリア戦争を引き起こした。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ガワー (1408年没)
- 李成桂 (1408年没)
- ヨハネス7世パレオロゴス (1408年没)
- ハイダル・アームリー (1408年)
- ヴィルヘルム1世 (ベルク公) (1408年没)
同じ地域に関係する人物
- セイントベナント (1886年没)
- ジャン8世 (ヴァンドーム伯) (1477年没)
- ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー (1807年没)
- マリー・カジミール・ド・ラ・グランジュ・ダルキアン (1716年没)
- イザベラ・オブ・ヴァロワ (1409年没)