伝記
ジャン・ド・ラ・ブリュイエールは、フランスのモラリストであり作家である。1645年8月、パリに生まれ、洗礼はシテ島のサン・クリストフ教会で受けたことが洗礼記録から知られる。ただし、近郊のドゥルダン付近の村で生まれたと考える根拠もある。父ルイは市庁舎の年金総監督官で、母エリザベト・アモナンは、シャトレ裁判所の代訴人の娘であった。一族は代訴人の世界に属する平民の家で、サント・ブーヴは曾祖父を連盟派の指導者マティアス・ド・ラ・ブリュイエールと考えたが、これは同姓の別人とされ、実際の曾祖父はそうではなかった。一族の起源は、先祖が農民だったペルシュ地方に求められる。
おそらくパリのオラトリオ会で育てられ、オルレアン大学で後見や持参金についての論文を審査され、法学士の資格を得た。古代ギリシャ語とドイツ語を解したことは確かで、これは当時としては珍しい。パリに戻って弁護士名簿に登録されたが、ほとんど弁護はしなかった。家の資産は乏しく、長く金銭に困ったが、1673年に叔父の遺産を受け、カーン財務区の財務官の職を買った。これは年に相当な収入があり、貴族に叙せられる資格も伴うものだった。就任のためノルマンディーへ赴いたが、手続きののちパリに戻り、カーンには二度と顔を出さなかった。パリのオーギュスタン通りで慎ましく学究的な隠遁生活を送ったが、1679年に机から2500リーヴルを盗まれて無一文になり、ソワイクール侯爵家の家庭教師となった。官職は1686年に売却した。
その後は、貴族社会の上層に入る目覚ましい出世を遂げた。ボシュエの推薦によるとされ、大コンデの孫である若いブルボン公と、国王とモンテスパン夫人の庶出の娘ナント嬢の家庭教師の一人に迎えられた。コンデ邸に住み込んだ。ブルボン公はイエズス会の学院で哲学を学び終えたばかりで、ラ・ブリュイエールは他の師たちとともに教育を担当し、自らは歴史、地理、フランスの制度を教えた。しかし生徒はてんかんの持病があり、勉強には身が入らず、成績も平凡であったという。大コンデが亡くなって教育が終わったとみなされた後も、彼はコンデ家にとどまり、「公爵の侍従」として図書室を預かり、ヴェルサイユやシャンティイの城に住んだ。コンデ家では機知と傲慢が時に極端な残酷さにまで及んだとサン・シモンが書いている。
そうした環境の中で書いたのが、1688年の『カラクテール』(和訳『人さまざま』)である。古代ギリシャの哲学者テオプラストスの『人さまざま』を翻訳し、付録として自らの文章を添えたところ、ベストセラーとなった。宮廷人の権力欲、社交界の生態、信仰者の狂態、農民生活への皮肉など、大胆な批判と機知を込め、17世紀の精神を伝える記録となった。簡潔な断章を重ね、断ち切るような文体で朗読にも向き、マリヴォーからプルースト、ジッドに至る作家たちがその道を受け継いだ。ラ・ブリュイエールは1696年5月、ヴェルサイユで没した。18世紀の啓蒙主義の先駆ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- エレオノーレ・フォン・ザクセン=アイゼナハ (1696年没)
- Gregorio de Matos (1696年)
- Jean Domat (1696年)
- ヘンドリック・カシミール2世 (ナッサウ=ディーツ侯) (1696年没)
- エリザベート・マルグリット・ドルレアン (1696年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・モネ (1979年没)
- アニェス・ド・メラニー (1201年没)
- ニコラス・メルカトル (1687年没)
- シャルル・ド・ブルボン (ベリー公) (1714年没)
- エルネスト・ショーソン (1899年没)