HISTORICAL PERSON · 452年没

太武帝

北魏の第3代皇帝。夏、北燕、北涼を滅ぼして華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせた。446年に廃仏の詔を発し、450年には南朝宋へ大軍で南征したが、452年に宦官の宗愛に殺された。

生涯
452年没
死亡地
中華人民共和国(山西省 / 城区)
出生地
中華人民共和国(城区)
出典
世界地図
中華人民共和国(山西省)

伝記

太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝である。第2代明元帝の長男で、諱は拓跋燾(たくばつとう)、鮮卑名は仏狸(ブリ)、408年に生まれ、452年3月11日に没した。仏狸は古代テュルク諸語で狼を意味するという。有能な君主と評され、在位中に北魏の領土はおよそ倍になり、華北を統一して五胡十六国時代を終わらせ、南朝宋とともに南北朝時代を開いた。生まれたとき父はまだ皇太子の位にはなかったが、事実上の後継者であった。母は後に杜貴嬪と呼ばれた人物で、幼いころから理由は不明ながら母と引き離され、乳母の竇氏に育てられた。母の事情を知って深く悲しんだことが父に称えられたという。420年に母は亡くなった。422年に太平王となり、同年の大病の際、崔浩の進言で皇太子に立てられ、さらに帝位に就いて副帝として政務をとった。以後、とくに内政の多くは皇太子が裁決し、父は重要事項のみを扱った。423年、父が宋から河南の大半を奪ったのち没し、燾が太武帝として即位した。

即位直後、明元帝の死を知った柔然が攻め込み、最初の戦いで包囲されたが戦って脱出した。以後ほぼ毎年柔然を攻撃したが、柔然は北へ退いては帰還を繰り返した。424年には盛楽宮が落とされたが、425年に撃退に成功し、同年、宋との平和な関係を再び築いた。のちに北魏の伝統となる、乳母の竇氏を「保太后」として敬う措置もとった。426年には、宦官の仇洛斉の上奏により戸籍の改革を行い、登録されていなかった戸を地方の徴税台帳に正しく編入して、納税人口の不足を解消した。その後、華北の統一を進め、匈奴赫連部が建てた夏を攻め、長安を陥落させ、427年に都の統万城を落として、431年に夏を滅ぼした。436年には遼河流域の馮氏の北燕を滅ぼし、439年には姑臧に拠る匈奴沮渠部の北涼を滅ぼして、華北を統一した。その後、内蒙古の北辺の防備のため、6か所の鎮(六鎮)を中心とする屯田地帯を設けた。

即位後まもなく熱心な道教徒となり、道士の寇謙之が名を高めると、崔浩は寇謙之の信奉者となり、しばしば帝の前で称賛した。帝は、自らの神的な出自を暗示する寇謙之の予言を喜び、布教を公認した。444年、崔浩と寇謙之の進言もあってか、僧侶や師巫を養うことを禁じる詔を出した。446年、蓋呉の乱の平定のため長安に向かった際、寺院から大量の武器が見つかり、廃仏の詔を発して寺院や仏像を破壊し、沙門を坑殺に処した。これが三武一宗の廃仏の第1とされる。北涼の滅亡を機に西域貿易を国家の手で握りたい帝と、商人や彼らに保護された寺院との対立とみる解釈もある。450年、100万と称する大軍を率いて南征し、宋は大敗して戦死者は万単位に上ったと伝えられる。北魏軍は瓜歩まで進んだが、長江を渡らず都の平城へ引き返した。捕虜とした宋の民5万余戸は畿内に分配された。宋はこれを境に衰退したとされる。内政では崔浩を中心に漢族の諸侯を重用したが、性急な漢化政策や貴族制の採用への反発から、国史編纂の問題を口実に450年、崔浩を族誅に処した。治世の末には残酷さが増し、宋との戦いに民も疲弊したといわれる。

451年、宦官の宗愛の讒言により、帝の愛する皇太子の拓跋晃がショックで病没した。断罪を恐れた宗愛は452年に太武帝を殺害し、末子の南安王拓跋余を擁立したが、南安王が宗愛の専横にうんざりして誅殺する動きを見せたため、身の危険を感じて先手を打ち南安王も殺した。尚書の陸麗、近衛団長の劉尼、殿中尚書の源賀らは宗愛を誅殺し、亡き皇太子の嫡子で帝の孫にあたる文成帝(拓跋濬)を即位させた。

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