HISTORICAL PERSON · 紀元前570没

ミュティレーネのピッタクス

ミュティレネの将軍で、ギリシア七賢人の一人。アテナイ軍に勝利して最高権力を託され、10年間統治した後に自ら退いた。

生涯
紀元前570没
死亡地
イタリア共和国(マテーラ県 / メタポントゥム)
出生地
ギリシャ共和国(ミティリーニ)
出典
世界地図
イタリア共和国(マテーラ県)

伝記

ピッタコスは、レスボス島の都市ミュティレネの出身で、軍人・政治家として活躍し、ギリシアの七賢人の一人に数えられる人物である。生年は紀元前650年ごろ、あるいは紀元前640年ごろとされ、没年は紀元前570年ごろとも紀元前568年ともされる。父はヒュラディオス(ヒュラス)といい、トラキアの出だともいわれる。妻はこの島で最有力の家門の一つ、ペンティリダイ家の女性だったと伝えられる。政治的・社会的な知恵と、思慮、そして軍事上の手腕で知られた。

政界に現れたのは紀元前612年で、詩人アルカイオスの兄弟であるアンティメニダスやキュキスらの貴族派と組み、僭主メランクロスを倒したとされる。その後は党派を替え、次の僭主ミュルシロスに与した。このため、ミュルシロスに反対していたアルカイオスとは敵対する関係になった。

軍人としての名声を決定づけたのは、トロアス地方のシゲイオンをめぐるアテナイとの戦いである。アテナイの将軍プリュノンは、オリュンピア競技の優勝者としても知られる勇者だった。ピッタコスは流血を減らすため、この将軍に一騎打ちを挑み、これが受け入れられた。ストラボンやディオゲネス・ラエルティオスによれば、彼は網を用いて相手を捕らえ、皆の見ている前でとどめを刺した。ポリュアイノスは、彼が盾の下に網を隠していたと記し、この策が剣闘士の試合で網を使う習慣の起こりになったと述べる。別の伝承では、彼は広い刃の剣で敵を倒したとされる。その後、コリントスのペリアンドロスの仲裁により、シゲイオンはアテナイの手に残り、アキレイオンはミュティレネの支配下に入ったという。

この勝利により、ミュティレネの人々は彼を深く尊敬し、最高の権力を託した。ミュルシロスが没した紀元前590年ごろ、彼は世襲でない選挙による独裁官のようなアイシュムネテスに選ばれ、10年にわたって国を治めた。任期を終えると自ら辞任し、その後、都市には秩序と永く続く法が保たれたとされる。詩の形で定められた彼の法には、酒に酔って犯した罪は、しらふの場合の2倍に罰するというものがあった。酒の上の乱暴をしがちな貴族層を主に念頭に置いたもので、民衆から歓迎されたという。ほかに、法に関する散文と、600行のエレゲイア詩を書いたと伝えられるが、いずれも現存しない。

私生活では、息子ティルライオスが殺され、犯人が目の前に引き出されたとき、彼は男を解き放ち、「悔いるより赦すほうがよい」と言ったとされる。ほかに「何をするにも立派にやれ」「権力は人を示す」「神々でさえ必然には逆らえない」「よい人であることは難しい」などの言葉が伝わり、最後の言葉はプラトンの『プロタゴラス』で、ソクラテスとプロタゴラスが長く論じている。同じ作品では、ケオスのプロディコスが、レスボス出身で異民族的な方言に育った彼は言葉を正しく区別できなかったと評している。ほかに、事前に自分の行いを口にするな、失敗すれば笑われる、不幸な人をなじるな、友だけでなく敵の悪口も控えよ、といった戒めも伝わる。盛年は第42回オリュンピア紀ごろとされ、70年を超えて生き、第52回オリュンピア紀の3年目に没したとされる。

同じ年に亡くなった人物

該当人物はまだありません。

同じ地域に関係する人物