伝記
ルカニアの聖ヴィトゥスは、キリスト教の聖人であり殉教者である。カトリック教会と正教会で聖人とされ、290年頃に生まれ、ローマ皇帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの共同統治時代の303年、迫害のなかで殉教したと伝えられる。祝日は6月15日である。ただし実際の生涯の年代はわかっておらず、シチリア出身の殉教者ともされる。名は言語によってさまざまに変わり、フランス語ではギィ、イタリア語ではヴィトまたはグイード、チェコ語ではヴィート、クロアチア語ではヴィド、ドイツ語ではファイトとなる。
最も古い記録は、5世紀に現れた『ヒエロニムス殉教録』に見える。そこには「シチリアの、ヴィトゥス、モデストゥス、クレセンティア」と記されている。同じ殉教録には、同じ日付の項にルカニアのエボリにいたヴィトゥスの名もあり、同一の殉教者である可能性が指摘されている。五世紀にはすでに三人が公に崇敬されていたことから、実在の殉教者だとみる説もあるが、殉教の時期や詳しい経緯を伝える歴史的な記録はない。モデストゥスとクレセンティアは、もともと別系統の伝承の人物で、のちにヴィトゥスと結びつけられたとされ、実在しなかった可能性が高いともいわれる。
6世紀から7世紀の間に、殉教の逸話が広まった。それによると、ヴィトゥスは異教徒であるルカニアの支配者の子で、幼い少年だったという。7歳とも12歳ともされる。父からキリスト教の信仰を捨てるよう求められ、拷問を受けても抵抗した。信仰の師であったモデストゥスと、その妻で乳母のクレセンティアとともに逃れたが、ローマへ連れてこられた。ディオクレティアヌス帝の皇子に取りついた悪魔を追い払うためだったとする話もある。信仰を捨てなかった三人は再び拷問を受けたが、奇跡が起こり、天使によってルカニアへ戻された。三人はその地で、受けた拷問の傷がもとで亡くなったとされる。絵画や彫刻では、釜に入った姿でニワトリかライオンとともに描かれる。煮えたぎる湯の釜に投げ込まれても無傷だったという言い伝えによる。
信仰は早くから広まった。南イタリアとシチリアにすぐ伝わり、教皇グレゴリウス1世はシチリアにあったヴィトゥスに献じられた修道院について書き残している。ローマでも早くから聖人として崇められ、ゲラシウス1世(在位492年から496年)はローマにあった彼の教会に言及している。756年には、サン=ドニ修道院の僧フルラドによって聖遺物がフランスに持ち込まれたといわれる。その聖遺物はのちにドイツのコルヴァイ修道院に贈られ、ここからヴェストファーレンや東部・北部ドイツへ信仰が広がった。プラハでの崇敬は、925年に東フランク王ハインリヒ1世がボヘミア公ヴァーツラフ1世へ聖人の手の骨を贈ったことに始まる。この聖遺物は現在、プラハの聖ヴィート大聖堂に祀られている。
スラヴ諸国では信仰が根強く、名のスヴェティ・ヴィドは、古い異教の光の神スヴァントヴィド信仰に置き換わったともいわれる。クロアチアには聖ヴィトゥスに献じられた教会が123ある。中世後期のドイツやラトビアなどでは、彼の像の前で踊って祝日を祝った。この踊りが、神経性の病気にみられる舞踏運動を「聖ヴィトゥスの踊り」と呼ぶ由来となった。こうした故事から、ヴィトゥスはダンサー、俳優、喜劇役者、てんかん患者の守護聖人とされ、雷や動物の攻撃、過剰睡眠から守ってくれるとも信じられた。またプラハとボヘミアの守護聖人でもある。
同じ年に亡くなった人物
- Victorinus of Pettau (303年)
- 陸機 (303年没)
- アカキオス (303年)
- キリアクス (303年)
- 聖フィデス (303年没)
同じ地域に関係する人物
- マンゴー (2014年没)
- ピタゴラス (紀元前496年没)
- ミュティレーネのピッタクス (紀元前570)