HISTORICAL PERSON · 2021年没

ウォルター・モンデール

アメリカの政治家。カーター政権で第42代副大統領を務め、駐日大使も歴任した。1984年の大統領選では民主党の候補となった。

生涯
2021年没
死亡地
アメリカ合衆国(ミネソタ州 / ミネアポリス)
出生地
アメリカ合衆国(Ceylon)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ミネソタ州)

伝記

ウォルター・モンデールは、1928年1月5日にミネソタ州セイロンで生まれ、2021年4月19日に93歳で没したアメリカ合衆国の政治家である。愛称は「フリッツ」で、第42代副大統領(在任1977年1月20日〜1981年1月20日)を務め、ミネソタ州検事総長、連邦上院議員、駐日大使を歴任した。1984年の大統領選挙では民主党の候補であった。

父セオドアはノルウェー系のメソジスト派牧師、母クラリベルは音楽教師であった。異母兄のレスターはユニテリアン派の牧師になった。祖父の代にノルウェーから移民した家で、姓はノルウェーの谷と村の名ムンダルを英語風にしたものである。大恐慌のなかで貧しく育ち、一家は1934年にヘロンレイク、1937年にエルモアへ移った。父の宗教的な信念から強い影響を受け、公民権運動への支持も父の影響だったとされる。父は1948年に脳卒中で亡くなった。セントポールのマカレスター大学に進み、のちミネソタ大学に編入して1951年に政治学の学士号を得て卒業した。法科大学院に通う余裕がなかったため陸軍に入り、朝鮮戦争の時期をケンタッキー州のフォート・ノックスで過ごして、伍長にまで昇進した。除隊後は復員兵援護法の奨学金を使ってミネソタ大学ロースクールに入り、1956年に卒業した。1955年にはジョーン・アダムズと結婚している。

マカレスター大学在学中にミネアポリスのヒューバート・ハンフリー市長の選挙運動を手伝ったことが、政界入りのきっかけであった。弁護士を経て、1960年に州知事オーヴィル・フリーマンからミネソタ州検事総長に任命され、1962年の選挙では約6割の票を得て正式に当選した。1964年、ハンフリーがジョンソン政権の副大統領となって上院議員を辞すると、その後任に任命された。1966年に改めて当選し、1972年に再選された。上院では消費者保護、公平な住宅、税制改革、学校の人種統合を支持し、民主党内では急進派と保守派の中間的な立場だったとされる。

1976年、民主党の大統領候補ジミー・カーターに副大統領候補として選ばれ、現職のフォードと副大統領候補のドールの組を僅差で破って当選した。上院議員は辞し、就任直後からヨーロッパを訪問するなど内外を回った。しかし経済が悪化するなか、1980年の選挙ではレーガンとブッシュに大差で敗れた。1984年には現職のレーガンに対抗する民主党候補に指名され、女性として二大政党史上初の副大統領候補となるジェラルディン・フェラーロ下院議員を選んだ。核兵器の凍結や増税などを訴えてレーガノミクスや軍拡路線を批判したが、選挙人投票は525票対13票で敗れ、勝ったのは地元ミネソタ州とワシントンDCだけであった。

その後は法律事務所に加わった。クリントン政権では駐英大使や駐仏大使の案が検討されたが固辞し、1993年に駐日大使となって、貿易不均衡の是正や非関税障壁の排除に力を注ぎ、1996年に退任した。尖閣諸島をめぐる発言で石原慎太郎らから批判を受けたこともある。2002年には、ポール・ウェルストーン上院議員が選挙の11日前に飛行機事故で亡くなったため、急遽その代役として出馬したが、共和党のコールマンに50%対47%で敗れた。2008年にはオバマの対日政策顧問グループの名誉会長となり、同年に桐花大綬章を受章した。2021年4月、ミネアポリスの私邸で老衰により亡くなった。

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