伝記
レオ1世は、390年ごろ(391年とする資料もある)に生まれ、461年11月10日に没したローマ教皇である。在位は440年9月29日から461年11月10日まで。「大教皇」と称され、カトリック教会では教会博士の一人、カトリック教会や正教会、聖公会などで聖人とされる。教皇年鑑では、大教皇の称号をもつ三人の教皇のうち最初に数えられる。
出身はトスカーナ地方で、ピサ近郊とも伝えられる。若いころの経歴には不明な点が多いが、431年には助祭として、ローマの外でも名を知られていた。ヨハネス・カッシアヌスは、レオの勧めで書いたネストリオス派批判の論考を彼に献呈している。先代教皇シクストゥス3世の晩年には、皇帝ウァレンティニアヌス3世の意向で、ガリアの有力な軍司令官アエティウスと高官アルビヌスの争いを調停するために派遣された。その不在中の440年8月にシクストゥス3世が世を去り、9月29日、レオは民衆の総意によって後継者に選ばれた。
教皇となったレオは、異端に対して厳しい態度をとった。アクイレイアでペラギウス派の信徒が異端の否定を明確にしないまま教会の交わりに受け入れられていると知ると、これを戒め、地方教会会議を開いて、元ペラギウス派の信徒に異端をはっきり放棄させるよう指示した。443年末にはマニ教徒への批判の説教を重ね、疑わしい者を司祭に通報するよう市民に呼びかけた。444年初めには、ローマからマニ教徒を一掃したと各地の司教に告げている。同時代のプロスペルによれば、レオは彼らの正体を暴き、書物を焼いたという。447年にはスペインで広がったプリスキリアヌス派を論駁する長文の書簡を著し、異端者には最も重い罰がふさわしいと述べた。一方で、飢饉や難民の流入、貧困に苦しむローマでは慈善事業を活発にし、断食を施しと結びつけて説いた。この時代に、それまで司教一般を指した「パパ」の語が、ローマ司教だけを指すようになったとされる。
レオは教皇の権威の強化にも大きな役割を果たした。ガリアで、アルルの司教ヒラリウスが自らの首位権を主張してレオの裁定を認めなかったとき、レオは皇帝に訴え、445年6月6日の勅令で、ローマ司教の首位が確認された。450年には東ローマ皇帝テオドシウス2世が、書簡の中でローマ司教を西方の総主教と呼んでいる。
対外的な危機にも向き合った。452年、フン族の王アッティラがイタリアに侵入すると、レオは会見して撤退を促し、アッティラはイタリアから退いた。中世ハンガリーの年代記には、平和裏に去るならば後継者の一人が「聖なる王冠」を受けるだろうと教皇が約束したと記されている。ただし、実際にはフン族の陣営で疫病や飢餓が広がっていたためと見られ、教皇個人の権威がどれほど作用したかは研究者の間で議論がある。ヨーロッパには、忠告を聞かなかったアッティラに天罰が下ったという伝承も広まり、この出来事は教会の権威を高める契機になったとされる。455年にヴァンダル王ガイセリックの軍がローマに迫ったときも、レオは責任者と会って、虐殺と破壊を避けるよう求めた。彼は武力による解決を好まず、平和的な解決を図り続けたと伝えられる。キリストの神性と人性が一つの位格に結ばれていることを説明したレオの書簡「レオの教書」は、第四回公会議であるカルケドン公会議での議論で重要な役割を果たした。こうした神学上の貢献により、のちに教皇ベネディクトゥス15世から教会博士に列せられ、「教会の一致の博士」の称号を与えられた。461年11月10日、レオは世を去った。
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