伝記
ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンは、アラブ首長国連邦の第2代大統領(在任2004年11月3日から2022年5月13日)であり、連邦内で最大のアブダビ首長国の首長でもあった。1948年の生まれで、誕生日は1月25日とも9月7日ともいわれ、生年を1947年とする説もある。
アブダビ首長の弟で地方の知事を務めていたシャイフ・ザーイドの長男として、アル・アインのムワイジ城で生まれた。母ハッサ・ビント・ムハンマドは父の第一夫人で、アブダビ首長家の重鎮ムハンマドの娘である。幼少期の大半をアル・アインで過ごし、宗教教師からイスラームの教えを学んだ。当時アル・アインに正規の学校がなかったため、父ザーイドはマスカットから教師を招いて、1950年代半ばにムワイジに設けた小さな学校で子どもたちを学ばせた。1960年から1961年の学年にはナヒヤーン模範学校で学び、のちにファラーフ校でも学んだ。のちには英国のサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業している。父の主宰する集会にも定期的に出て政治や統治の経験を積み、競馬やラクダ競走といった伝統的な競技にも強い関心を持った。
1966年に父がアブダビ首長に即位すると、東部地域の首長代理とアル・アインの裁判所庁の長に任じられた。1969年2月1日にはアブダビの皇太子に指名され、翌日には国防局長となって、のちに連邦軍の中核となるアブダビ防衛軍の整備を指揮した。1971年に父ザーイドの主導でペルシア湾岸の小首長国が連合してアラブ首長国連邦が結成され、父が連邦大統領となると、1973年12月に連邦の第2副首相に就いた。1974年1月にはアブダビ行政評議会の議長となり、1976年3月には父とともにアブダビ投資庁の創設に携わり、これを率いた。同年5月には連邦軍の副司令官となった。さらに石油政策の権限をもつ最高石油評議会の議長を務め、環境調査・野生生物開発庁の議長でもあった。1981年には社会事業・商業建築局と、住宅や商業建築を支援するハリーファ住宅基金を設け、アブダビの建設を促したとされる。
2000年代に入って高齢の父の健康不安が表に出たが、ハリーファが父の役割を継ぐことはすでに既定路線となっており、大きな混乱は起こらなかった。2004年11月2日に父ザーイドが亡くなると第15代のアブダビ首長に即位し、翌日、連邦最高評議会で第2代大統領に選ばれた。皇太子には異母弟のムハンマドが指名された。その後は再選を重ね、2019年11月6日に4選された。連邦予算の70%を拠出する盟主アブダビの指導者として、石油収入に支えられた連邦の繁栄を保つことが期待された。在任中、アブダビには文化や学術の拠点が誘致され、ルーヴル・アブダビやニューヨーク大学アブダビ校、ソルボンヌ大学アブダビ校の設立につながったほか、エティハド航空も創設された。2008年の金融危機の際には、ドバイに数十億ドル規模の緊急支援資金を拠出するよう指示した。2010年1月4日には、ドバイの超高層ビル「ブルジュ・ドバイ」が開業し、彼にちなんで「ブルジュ・ハリーファ」と名を改めた。
2014年に脳卒中を発症し、手術を受けたあと容体は安定したが、その後は国政の表に出ることが少なくなった。アブダビの運営と日々の意思決定は、皇太子ムハンマド・ビン・ザーイドが担うようになった。2018年には米国の経済誌が選ぶ世界で最も影響力のある人物の一覧に名を連ねている。2022年5月13日、在位のまま亡くなり、弟のムハンマドが後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
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- スティーヴン・ウィルハイト (2022年没)
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同じ地域に関係する人物
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