伝記
A・S・バイアット、本名デイム・アントニア・スーザン・バイアットは、1936年8月24日にイングランドのシェフィールドで生まれ、2023年11月16日に没したイギリスの小説家である。批評家、詩人、短編作家としても知られ、作品は30以上の言語に翻訳された。父は勅選弁護士で、のちに州裁判所の判事となったジョン・フレデリック・ドラブル、母は詩人ブラウニングの研究者だったキャスリーン・ブルーアである。母はバーナード・ショーの愛読者、父はクエーカー教徒だった。小説家のマーガレット・ドラブルは妹にあたる。第二次世界大戦中にシェフィールドが爆撃を受けたため、一家はヨークに移った。
シェフィールド・ハイスクールと、ヨークにあるクエーカー系の寄宿学校マウント・スクールで教育を受けたが、寄宿学校になじめず、1人でいる時間を求め、友人もつくりにくい不幸な子どもだったという。重い喘息のために床につくことが多く、読書がつらい家庭からの逃げ場となった。のちにケンブリッジ大学のニューナム・カレッジ、アメリカのブリンマー大学、オックスフォード大学のサマーヴィル・カレッジで学んでいる。学校ではフランス語、ドイツ語、ラテン語、英語を学び、ケンブリッジではダンテを読むためにイタリア語も学んだ。寄宿学校の時期には多くを書いたが、卒業前にその大半は焼かれてしまった。ケンブリッジでは講義にあまり出ず、出たときには小説を書こうとして過ごし、最初の2作の執筆を始めた。
1959年にイアン・チャールズ・レイナー・バイアットと結婚してダラムに移り、娘と息子チャールズをもうけた。1960年代にはロンドン大学の公開講座部などで教え、1972年からは1983年までユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで教えた。1972年に息子の教育費を助けるために教職に就いたが、その同じ週、11歳だった息子が学校から歩いて帰る途中、飲酒運転の車にひき殺された。この教職を象徴的に11年間続けたのち、1983年から専業の作家となった。のちに死んだ子どもの像が現れる長編を出版した際、息子の死と自身の仕事への影響を語り、詩「死んだ少年たち」も書いている。不可知論者だったが、クエーカーの礼拝には親しみを持ち続け、スヌーカーやテニス、サッカーの観戦を楽しんだ。妹のドラブルとは、互いの作品に自伝的な要素があることから関係がぎくしゃくすることもあったとされる。最初の結婚は1969年に解消され、同年ピーター・ダフィと再婚して娘2人をもうけた。
最初の2作は1964年の長編と、1967年の『ゲーム』である。1978年に出した長編は、1985年、1996年、2002年の作品へと続く四部作の第1作になった。1990年の『抱擁』でブッカー賞を受賞し、この作品は後に映画化された。1994年の短編集は1995年にアガ・カーン賞を受け、その長編は2009年のブッカー賞最終候補となり、2010年にジェームズ・テイト・ブラック記念賞を受けた。友人で師でもあったアイリス・マードックについての研究書を2冊著している。2002年にシェイクスピア賞、2016年にエラスムス賞、2017年に朴景利文学賞、2018年にアンデルセン文学賞を受け、ノーベル文学賞の候補にも挙げられた。
おもにロンドン南西部のパトニーに暮らし、2023年11月16日に自宅で87歳で亡くなった。ヘンリー・ジェイムズやジョージ・エリオットらの影響を受け、写実主義と幻想を融合させた。ロマン派やヴィクトリア朝の文学の主題を作品に取り入れたことでも知られる。
同じ年に亡くなった人物
- AKA (2023年没)
- レオナルト・ピェトラシャク (2023年没)
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- ライアン・オニール (2023年没)
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