HISTORICAL PERSON · 480年没

ユリウス・ネポス

叔父マルケリヌスの地盤ダルマティアを背景に、レオ1世から西ローマ皇帝に立てられ、グリケリウスを退けて即位した。西ゴートと和平を結んだが、オレステスの反乱でダルマティアへ逃れ、抵抗を続けた。

生涯
480年没
死亡地
クロアチア共和国(スプリト=ダルマチア郡 / スプリト)
出生地
クロアチア共和国(ダルマチア)
出典
世界地図
クロアチア共和国(スプリト=ダルマチア郡)

伝記

フラウィウス・ユリウス・ネポスは、五世紀の西ローマ皇帝であり、のちには帝位請求者として抵抗を続けた人物である。生年は430年とされ、480年に没した。出自については歴史家ヨルダネスの記録以外にあまり残っておらず不明な点が多いが、ローマ貴族の一員で、軍務長官としてダルマティア総督を務めたマルケリヌスの甥であった可能性が高いと考えられている。父は将軍ネポティアヌスと伝えられるが、同名の別人と混同されている可能性も指摘されている。

叔父マルケリヌスは、皇帝ウァレンティニアヌス3世がアエティウスを暗殺した際に反乱を起こした将軍の一人で、その後ダルマティアに強固な地方軍閥を築き、諸皇帝から独立した自治権を承認させていた。この叔父の存在がネポスの台頭に重要であった。マルケリヌスは468年、蛮族出身の軍務長官リキメルによってシチリア滞在中に暗殺された。ネポスは東方皇帝レオ1世の妻の姪と結婚しており、レオ1世の姻戚という立場にあった。

473年、西方皇帝グリケリウスと対立していたレオ1世は、この姻戚ネポスを西方の皇帝として宣言し、イタリアへ侵攻させた。グリケリウスは為す術なく投降し、サロナの主教としてダルマティアへ追放された。ネポスは義伯父の共同皇帝を名乗り、皇帝として即位した。

皇帝となったネポスは、イタリア本土、ダルマティアを含むイリュリア、ガリアの一部といった西方に残る領域の統合を試みた。西ゴート王エウリックとは和平条約を結び、維持の難しい幾つかの都市を平和的に譲る代わりに、ガリア南東のプロヴァンス地方の支配権を回復した。一方、地中海の制海権を脅かしていたヴァンダル王ガイセリックとの交渉は不首尾に終わった。国内では、レオ1世の後ろ盾を受けた即位に反感を抱く元老院との対立が悩みの種であった。しかもレオ1世は474年初頭に世を去り、新たに東方皇帝となったゼノンは、レオ1世の一族との確執からネポスを支持しようとしなかった。

命取りとなったのは、フラウィウス・オレステスを新たな軍務長官に指名したことである。アッティラの重臣であったというオレステスは、475年8月28日に軍を率いて反乱を起こした。ネポスはラヴェンナを攻め落とされ、辛うじて海路でダルマティアへ脱出した。オレステスは自ら帝位に就かず、12歳の息子ロムルス・アウグストゥルスを皇帝と宣言したが、ゼノンはこれを承認しなかった。ネポスは皇帝の身分を保ち、伯父と同じくダルマティアに軍閥政権を確立した。

476年、傭兵団長オドアケルがオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させた。オドアケルはゼノンに西方帝位を返上し、代わりにパトリキの地位とイタリアを統治する権限を得た。この会見にはネポスも同席したが、ゼノンは彼の権威を粗末にしないよう助言するにとどめ、西方を諦めるよう告げた。オドアケルは忠誠の証として、ネポスの名と肖像を刻んだ金貨を発行した。しかしネポスの身分は形式的なものにすぎず、以後はダルマティアの支配に専念した。

480年、ネポスはサロナの宮殿に滞在中、護衛兵によって刺殺された。日付は4月25日、5月9日、6月22日の三説がある。実行者について、コムスはネポス軍の将軍の裏切りを記し、別の歴史家はグリケリウスの関与を指摘している。グリケリウスは暗殺時に宮殿の近郊にいたとされ、のちにミラノ大司教に昇任したことも疑いを深めている。ダルマティアはその後、ネポス殺害を名目とするオドアケル軍に併合された。

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