HISTORICAL PERSON · 紀元前40年代没

アウルス・ガビニウス

ポンペイウスの支持者で、紀元前67年に護民官として海賊討伐の全権を彼に与えるガビニウス法を成立させた。前58年に執政官、シリア総督としてプトレマイオス12世を復位させたが、収賄で有罪となり追放された。

生涯
紀元前40年代没
死亡地
クロアチア共和国(スプリト=ダルマチア郡 / サロナ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
クロアチア共和国(スプリト=ダルマチア郡)

伝記

アウルス・ガビニウスは、共和政ローマ末期の軍人・政治家で、グナエウス・ポンペイウスの支持者である。生年は不明で、没年は紀元前48年または紀元前47年ごろとされる。紀元前58年に執政官を務めた。プレブス(平民)の出身で、紀元前67年にポンペイウスの支持を受けて護民官に当選した。護民官としてのガビニウスは、地中海で猛威を振るっていた海賊を討伐するためのガビニウス法を提案した。海賊の襲撃でシチリアやエジプトからローマへの食糧輸送が乱れ、イタリアが飢えかねない状況にあったという。法は、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)以東の海と、海岸から400スタディオン(約72キロ)以内の陸地に対する命令権、元老院議員から成る15名の副官、ポンペイウスが望むだけの予算を与えるものであった。名指しこそされていなかったが、実際にはポンペイウスに非常の権限を与える法で、危険な先例になるとして、前執政官クィントゥス・ルタティウス・カトゥルスら元老院の大多数が反対した。元老院では野次と罵倒を浴び、群衆が議場に押し入って議員の多くが逃げ出す騒ぎにもなった。別の護民官が拒否権を使うと、ガビニウスはその罷免を問う投票を行い、過半数の部族に達する直前に相手が引き下がった。法は市民集会で可決された。元老院はガビニウスが副官に任命されることは阻んだが、ポンペイウスは三か月ほどで海賊討伐を果たし、オリエントの征服にも成功した。護民官の任期中には、非ローマ人への資金貸与を可能にする法も成立させた。

紀元前61年に法務官に選ばれ、紀元前58年にはポンペイウスとカエサルを後ろ盾に、ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスとともに執政官となった。両名の名を冠したガビニウス・カルプルニア法は、デロス島の関税を免除する内容であった。この年、護民官プブリウス・クロディウス・プルケルがキケロの追放を決議させたが、ガビニウスは関与しない姿勢を取り、結果としてクロディウスを支援する形になった。債務を抱え、任期後に属州を得てローマと債権者から離れる必要があったためともいわれる。

紀元前57年からはプロコンスルとしてシリア属州総督を務め、エルサレムを訪れてハスモン朝のヒルカノス2世を大祭司に復帰させた。紀元前55年には元エジプト王プトレマイオス12世の求めに応じてエジプトへ侵攻し、復位を果たした。その留守中、アリストブロス2世の子アレクサンドロスがヒルカノス2世を大祭司の座から引きずり下ろしたので、ガビニウスはこれを討ってヒルカノス2世を復位させ、紀元前54年にクラッススへ総督職を譲った。

シリアに土地を持つ騎士階級は、この一連の紛争で大きな損害を受けたとして、ガビニウスを元老院に3つの罪状で告発した。元老院の同意なくエジプトへ軍を進めた件は無罪となり、コンスル選挙での不法な選挙活動の件は不起訴となった。しかしプトレマイオス12世から10,000タラントを受け取った件では、ポンペイウスの擁護とプトレマイオスからの証拠、キケロの弁護があっても有罪となり、ローマを追放されて財産をすべて没収された。

紀元前49年からの内戦では、長年支援を受けたポンペイウスと決別してカエサル陣営に属したが、主導的な役割は果たさなかった。ファルサロスの戦いの後、イリュリクムにいた軍を輸送する任務を受けたが、途上でダルマティア人の攻撃を受け、辛くもサロナエへ逃れた。さらに元老院派のマルクス・オクタウィウスにも攻められて防戦したが、紀元前48年または紀元前47年の初めに世を去ったと伝わる。

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