HISTORICAL PERSON · 311年没

ディオクレティアヌス

ローマ皇帝。軍人皇帝時代の危機を収拾し、285年に同僚のマクシミアヌスへ皇帝権を分け、四帝分治のテトラルキアを導入して専制君主政を創始した。官僚制を整え、キリスト教とマニ教を弾圧した。

生涯
311年没
死亡地
クロアチア共和国(スプリト=ダルマチア郡 / スプリト)
出生地
モンテネグロ(Doclea)
出典
世界地図
クロアチア共和国(スプリト=ダルマチア郡)

伝記

ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスは、ローマ帝国の皇帝で、在位は284年から305年である。244年12月22日に生まれ、311年12月3日に没した。帝国の安定化に努めて「3世紀の危機」と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾し、その過程でドミナートゥス(専制君主政)を創始し、テトラルキア(四帝分治制)を導入した。一方で、帝国内に勢力を伸ばすキリスト教とマニ教には弾圧を加えた。

ダルマティア属州の属州都サロナの生まれで、ディオクレティアヌスは皇帝になる際につけた名であり、本来の名はディオクレスという。母の名は一説にディオクレアで、父の名は分かっていないが、元老院議員アヌリヌスの解放奴隷だったことが判明している。一兵卒から出世して精鋭部隊の指揮官となり、先帝ヌメリアヌスの崩御後、軍に推されて、小アジア西北のニコメディアで皇帝に即位した。

当時は、広大な帝国の統治と防衛を一人で行うことは難しいと考えられていた。そこでディオクレティアヌスは、285年に軍の同僚のマクシミアヌスに皇帝権を分け、副帝に任じ、286年には正帝の西方担当とした。自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。292年には、それぞれの正帝が副帝を任命し、ライン川とドナウ川の防衛線を守らせた。これがテトラルキアで、帝国は事実上四人の皇帝により治められるようになった。ただ、この制度は彼の巧みな政治手腕に負う面が大きく、引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。宮廷は前線に近い都市に置かれたため、荒廃していた首都ローマの重要性は低下し、帝国の重心は東方へ移った。298年にはペルシアと講和し、メソポタミアをローマの統治下に組み入れ、アルメニア王の任命権を取り戻した。ペルシアとの間には44年間の平和がもたらされた。

内政では、武官と文官を切り離して官僚制を整え、軍事行動を迅速にした。属州を100ほどに再分割して、総督の権力も削っている。後の帝政は、こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造から、ドミナートゥスと呼ばれる。税は以後厳しくなる一方で、土地税と人頭税が導入され、インフレ対策の最高価格令も出された。皇帝権力の強化と愛国心の定着のため、自らをユピテルの子と宣言し、皇帝崇拝と合わせてローマの神々の礼拝を義務づけた。当初は、神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいとする融和的な姿勢をとったが、皇帝崇拝を無視する信者や、軍から離れるキリスト教徒の兵士が現れ、警戒を強めた。303年、ローマ全土にキリスト教徒の強制的な改宗や聖職者の逮捕、投獄などを命じる勅令を出し、聖書を焼き、教会を破壊し、財産を没収した。処刑された者は全土で数千人ともいい、キリスト教史では「最後の大迫害」と呼ばれる。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』で再評価されるまでは、長く暴君としか見られなかった。

305年、健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に面したサロナ近郊のアスパラトス、現在のスプリトに宮殿を築いて隠棲した。政治には関心を示さず、園芸などをして過ごしたという。311年12月3日にそこで没した。古代のローマ皇帝で退位した例は、ほかにほとんどない。宮殿内の霊廟に置かれていた石棺は持ち去られ、行方が分からず、これは弾圧された者の恨みを買ったためともされる。霊廟は後にキリスト教の聖堂に改築された。退位後、テトラルキアは急速に崩れ、306年にコンスタンティウスが亡くなると、軍は息子コンスタンティヌスを皇帝と歓呼し、内戦が始まった。

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