HISTORICAL PERSON · 481年没

テオドリック・ストラボ

アスパルの姻戚でゴート人の指導者。471年のアスパル殺害を受けてトラキアで挙兵し、473年に「全ゴート人にたいする王」と推戴された。ゼノンと対立と和解を繰り返し、481年に事故死した。

生涯
481年没
死亡地
ギリシャ共和国(ハスコヴォ州 / トラキア)
出生地
—
出典
世界地図
ギリシャ共和国(ハスコヴォ州)

伝記

テオドリック・ストラボは、5世紀のゲルマン系ゴート人で、東ローマ帝国の軍人である。481年に没した。高位の軍人だったゴート人トゥリアリウスの子として生まれ、妻はシギルダ、子にレキタクがいたとされる。東ローマの実力者だったアラン人の将軍アスパルの妻が、テオドリックの姉妹、または父の姉妹だったとされ、アスパルの義弟にあたる。ゴート人の指導者として「全ゴート人にたいする王」と呼ばれた。同時代のもう一人のゴート人テオドリック(アマル家のテオドリック)とは別人で、両者の血縁ははっきりしない。

459年ごろ、東ローマ政府は父の地位を継いだテオドリック・ストラボの一族にだけ高い給与を与えていたようで、別のゴート人首長であるイリュリクムのウァラメールは、不公平だと不満を表して反乱を起こした。471年、姻戚のアスパルが皇帝レオ1世の命で、ゼノンらによって殺害されると、ストラボはゴート人を率いてトラキアで兵を起こし、アスパルの遺産の引き渡しを求めた。コンスタンティノープル近郊ではゼノンらの部隊に敗れたともいわれる。このときアマル家のテオドリックは皇帝側についたが、ストラボはゴート人としての同族意識に訴えて自陣営に誘った。主張は多くのゴート人に支持され、473年に彼は「全ゴート人にたいする王」として推戴された。兵力は約1万と推定される。やがてレオ1世は要求を容れ、アスパルが就いていたマギステル・ミリトゥムの地位と、年額で金2000リーブラの給金を受け取る権利を与えた。

474年にレオ1世が死去し、レオ2世とゼノンの親子が帝位に就いたが、レオ2世もまもなく世を去った。ゼノンは出身のイサウリア人がコンスタンティノープルの市民に野蛮人とみなされ、人気がなかった。475年、レオ1世の義弟バシリスクスが反乱を起こすと、ストラボはこれに与してゼノンの追放に手を貸した。しかしバシリスクスがマギステル・ミリトゥムの地位を自分の甥に与えようとしたことに激怒し、その陣営を離れた。翌476年、ゼノンがイサウリア人を率いて都に攻め込むと、バシリスクスは息子とともに捕らえられ、処刑された。

復帰したゼノンは、バシリスクスに協力したストラボを解任し、代わりにアマル家のテオドリックをその地位に任じた。報復として、ストラボはトラキアで略奪を行った。ゼノンは彼を公敵と宣言し、テオドリックに討伐を命じた。478年、テオドリックは出陣したが、ストラボは巧みな説得で彼を懐柔し、ゴート人同士の争いを避けた。ゼノンはまず金・銀・年額の巨額の条件を示してテオドリックを引き離そうとしたが失敗し、次にストラボと交渉して、彼を元の地位に復帰させる条件で和解した。今度はテオドリックが解任される番になった。

479年、レオ1世の娘とその夫マルキアヌスがゼノンに反乱を起こした。反乱は失敗したが、ストラボが加担を疑われて再び解任された。彼はテオドリックと手を結んでトラキアを荒らし回り、ゼノンがブルガール人にトラキアを与える条件で差し向けた軍も撃退した。481年、コンスタンティノープルへの奇襲に失敗し、ギリシャへ撤退する途中の野営地で事故死した。馬から落ちて槍に当たったともいわれる。一族は息子が継いだが484年に殺害され、ストラボの一族はテオドリックの一族に吸収された。歴史家ピーター・ヘザーは、二人のテオドリックのうち同時代に有力な指導者だったのはストラボのほうだとしている。

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