HISTORICAL PERSON · 261年没

大マクリアヌス

ローマ帝国の反乱指導者。ウァレリアヌス捕縛の混乱に乗じ息子たちを皇帝に擁立したが自らは即位できず、トラキアの戦いで敗れ息子とともに自害を選んだ。

生涯
261年没
死亡地
ギリシャ共和国(ハスコヴォ州 / トラキア)
出生地
ブルガリア共和国(トラキア)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(ハスコヴォ州)

伝記

大マクリアヌス(ティトゥス・フルウィウス・マクリアヌス)は、3世紀のローマ帝国で反乱を主導した人物である。261年に没した。息子の小マクリアヌスと区別するため、大マクリアヌスと呼ばれる。皇帝ガッリエヌスに対して、二人の息子を皇帝に擁立した。

出身家系は分かっていないが、エクィテス(騎士身分)に属し、ウァレリアヌス帝のもとで軍事と財務の職を歴任したと考えられている。息子には、のちに共に皇帝を名乗る小マクリアヌスとクィエトゥスがおり、貴族の生まれで、おそらくユニアという名の女性と結婚していたとされる。エジプトでは財務長官にあたる職を務め、属州でのキリスト教徒の迫害を扇動したともいわれる。のちにウァレリアヌスのペルシア遠征に、軍の財務と糧食を担当する官として随行した。ローマ皇帝群像は、彼をウァレリアヌスの第一級の軍人だったと記すが、これは甚だしい誇張か、まったくの虚構と見られている。ゾシモスは、259年から260年にかけてイタリアでスキタイ人に勝利した遠征を彼に帰しているが、軍人としての重要性そのものに疑問が呈されている。

259年から260年にかけてのウァレリアヌスの対サーサーン朝遠征にも同行したが、途中で本軍を離れ、サモサタにとどまった。そのため、壊滅的なエデッサの戦いに巻き込まれずに済んだ。この間、サモサタにいた彼は助けることを拒んだとされ、ウァレリアヌスを裏切ったとも評される。260年、ウァレリアヌスがエデッサでシャープール1世に敗れて捕らえられると、その子で共同皇帝のガッリエヌスが単独の皇帝となったが、西方の問題に忙殺されていた。ペルシアの脅威がなお差し迫るなか、軍は新たな皇帝を立てようとし、親衛隊長官のバッリスタがマクリアヌスに帝位を勧めた。しかし脚に障害があり、高齢でもあったため、これを辞退したとされる。そこでバッリスタの支援と、財務官として持っていた影響力を用いて、二人の息子を皇帝に名乗らせることに成功した。擁立の日付は、10月17日とされる。財務の長として、息子たちの名で貨幣を鋳造することもできた。

261年、クィエトゥスとバッリスタが東方に残って支配を固める一方、大小マクリアヌス父子は、東方属州の軍団、すなわちアジアの軍を率いてヨーロッパへ進軍した。目的は、西方にいるガッリエヌスを排除することにあった。途中、ピソをギリシアに送り、ガッリエヌスに忠実な総督ウァレンスと戦わせたとされる。父子はトラキアに近いイッリュリクムでガッリエヌスの騎兵長官アウレオルスに敗れ、ともに命を落とした。

ヨハネス・ゾナラスによれば、父子の軍はアウレオルスの軍に包囲され、パンノニアの軍団を除いて降伏した。そこでマクリアヌスは、アウレオルスのもとへ連行される前に、息子とともに自分を殺すよう求め、牢に送られるのを避けたという。自軍の兵に殺されたともアウレオルスの手にかかったともいわれる。東方に残ったクィエトゥスも、のちにパルミラの支配者オダエナトゥスに殺された。

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