HISTORICAL PERSON · 紀元前353年没

イフィクラテース

アテナイの将軍・傭兵隊長。軽装の兵で機動力を活かしレカイオンの戦いでスパルタの重装歩兵軍を破り、装備を改良した新戦術部隊も考案した。

生涯
紀元前353年没
死亡地
ギリシャ共和国(ハスコヴォ州 / トラキア)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(ハスコヴォ州)

伝記

イフィクラテスは、紀元前415年ごろに生まれ、紀元前353年に没したアテナイの将軍であり、傭兵隊長である。ラムヌス区の靴職人の子で、父の職業のためにアテナイでは軽んじられていたが、戦場での功績によって重用されるようになった。のちにトラキア王コテュス1世の娘と結婚し、メネステウスという子をもうけた。もう一人の同名の子イフィクラテスは、紀元前335年より前にペルシア宮廷へのアテナイ使節として送られ、イッソスの戦いのあとアレクサンドロス大王に捕らえられた。大王は、アテナイへの友情と父の栄光の記憶から彼を手厚く遇し、彼が病で死ぬと遺体を故国へ送る費用を出したという。

名を高めたのは、コリントス戦争の戦いである。紀元前392年から390年にかけて、イフィクラテスはコリントス近郊のレカイオンで、小型で軽い革の盾と投げ槍を持つ機動力に優れた軽装歩兵を率い、スパルタの重装歩兵の一隊(約600人のモラ)をほぼ全滅させた。そのほかフリウスの領内では伏兵を置いて多くの敵を討ち、アルカディアでも守りの薄い土地を荒らし、城壁のある町をも攻めた。アルカディアの重装歩兵は、イフィクラテスの有名な軽装歩兵と戦うのを避け、城内にとどまったという。勢いに乗って次々に都市を奪ったが、アルゴス人との不和からコリントスからヘレスポントスへ移され、そこでも成功を収めた。

装備の改良でも知られる。従来のギリシアの歩兵は大きな盾、短い槍、小さな剣を用いたが、イフィクラテスは小さく軽い盾を取り入れ、槍の長さを2倍にし、剣も長くしたという。青銅の胸甲に代えて、軽くて同等の防御を持つ亜麻布の胸甲を勧め、脱ぎ履きしやすい軽い長靴も作らせ、これは後に「イフィクラティデス」と呼ばれた。どの種類の兵に改革を施したのかについては、軽装兵、傭兵の重装歩兵、艦上の海兵とする説があり、研究者の間で議論がある。

アンタルキダスの和約(紀元前387年)ののち、イフィクラテスはトラキアで、同盟者であるオドリュサイ人の王セウテスが王国を取り戻すのを助け、コテュスとは戦ったが、のちに同盟を結んだ。紀元前378年ごろにはペルシアのエジプト再征服を助けるため傭兵を率いて派遣されたが、ファルナバゾス2世との対立が原因で遠征は失敗に終わった。紀元前373年には、スパルタ側に包囲されたケルキュラの救援に向かった。紀元前371年の和約のあとトラキアに戻り、岳父コテュスの側についてトラキアのケルソネソス全域をめぐりアテナイと争ったため名声に傷がついたが、アテナイの拠点を攻めることは拒んでアンティッサへ逃れた。アテナイはやがて彼を赦し、同盟市戦争で共同指揮官の一人に任じた。しかし紀元前356年のエンバタの海戦での敗北の責任を問われて解任された。マケドニアの伸張を背景に、ヘレスポントス周辺で反乱が起こるなかでの出来事であった。

マケドニア王アミュンタス3世が死んだとき、王妃エウリュディケ1世に頼まれて、その息子たちを保護したともいう。コルネリウス・ネポスは、同時代の第一級の将軍に並ぶだけでなく、古い将軍の誰にも劣らないと評した。軍略に深い知識を持ち、しばしば軍を指揮して、自分の落ち度で企てを失敗させたことはなく、工夫に富んで、軍事に新しいものを多く持ち込み、既存のものも数多く改良したという。プルタルコスは、イフィクラテスが傭兵について、富や快楽を好んでもよく、欲望を満たす手段を求めるからこそ無謀なほど勇敢に戦うのだと考えていた、と記した。

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