伝記
ペーローズ1世は、サーサーン朝の君主(シャーハーン・シャー)で、在位は459年から484年である。名は中期ペルシア語で「勝利を得た」を意味する形容詞に由来する。父ヤズデギルド2世は457年に死去する際、後継者を定めなかったとされ、まもなく二人の息子の間で争いが起きた。長男ホルミズド3世はペルシア北部のレイで王位を宣言し、ペーローズは帝国の北東部に逃れて軍を興した。
この内戦でペーローズは、ペルシアの七大貴族の一つミフラーン家の支援を受けたとされる。アルメニアの史料によれば、家庭教師であったラハム・ミフラーンが459年にホルミズドを捕らえて処刑し、ペーローズを戴冠させた。別の史料ではミフラーン家の人物はアシュタードとされ、養父であったと伝えられる。後世のペルシア語の史料にはエフタルに逃れて協力を得たとする話もあるが、現代の歴史家は「伝説的」で「やや非現実的」と指摘している。
治世の初期、コーカサス地方のアルバニア王ヴァチェー2世が内戦に乗じて独立を宣言し、フン族の支援を受けてペルシア軍を攻撃した。ペーローズもフン族にダリアル峠の通過を許して応じ、双方が協定を結んで事態を収めた。協定でヴァチェー2世は、ペーローズの姉妹であった母と自分の娘を引き渡し、代わりにサーサーン朝出身者からなる1,000世帯を手に入れた。ペーローズは父に投獄されていたアルメニア人貴族の一部も釈放した。461年頃からは深刻な干ばつが起こり、おそらく467年まで続く大飢饉となった。ペーローズは一時的に税の徴収を止め、貯蔵庫を開いて食料を配給させたという。ただし、危機のさなかの464年に対キダーラ朝の軍事作戦を準備したことを考えると、この飢饉の記録はいくぶん誇張されている可能性がある。東ローマ帝国との間にも緊張があり、将軍アルダブリウスの密通が発覚した460年代中頃以降、皇帝レオ1世は共同防衛のための金の拠出を停止した。
東方では、シャープール2世の治世以来の宿敵キダーラ朝が、ヤズデギルド2世の貢納拒否を口実に464年頃に宣戦した。ペーローズは東ローマ帝国に財政支援を求めて断られ、キダーラ朝の王クンハスに縁談を持ち掛けながら、姉妹ではなく身分の低い女性を送ったとされる。それでも466年にはエフタルと協力してキダーラ朝を放逐し、一時的にトハーリスターンの支配を回復した。その後ペーローズはエフタルと対立し、二度戦って二度とも敗れ、捕虜となって身代金の支払いを余儀なくされた。東ローマ皇帝ゼノンが身代金を支払って解放したという。482年にはアルメニアなどで反乱が起こり、鎮圧できないまま三度目の対エフタル戦に敗れて、484年に戦死した。この戦いは当時も現代も無謀と評され、敗北は政治的・社会的・宗教的な混乱を招き、エフタルへの貢納を強いられた。帝国は衰運を極め、貴族と聖職者が政治を牛耳って国家に大きな影響力を振るうようになった。
ペーローズはゾロアスター教を信奉する一方、キリスト教ではネストリウス派を支持し、その死の直前にジュンディーシャープールで開かれた教会会議で、同派がペルシア教会の公式の教義とされた。また、シンド地方で自らの名の金貨を鋳造した最後のシャーハーン・シャーでもあり、この地方の支配が同じ頃サーサーン朝から失われたことを示している。後に息子カワード1世が改革を進め、孫ホスロー1世の時代に突厥と協力してエフタルを滅ぼした。
同じ年に亡くなった人物
- 清寧天皇 (484年)
- ウェリナ (484年)
- エウリック (484年没)
- Nechtan Morbet (484年)
- フネリック (484年没)
同じ地域に関係する人物
- ギヤースッディーン・ムハンマド (1202年没)
- アブドッラー・アンサーリー (1089年没)
- ハマザーニー (1007年没)
- ドースト・ムハンマド・ハーン (1863年没)
- 葉護可汗 (587年没)