伝記
ジョゼフ・アディソンは、イギリスのエッセイスト・詩人・劇作家・政治家である。1672年5月1日、聖職者の父と最初の妻ジェーン・ガルストンの長男としてウィルトシャーに生まれた。熱心なホイッグ党の支持者で、アン女王の治世に友人のスティールとともにエッセイ新聞『スペクテイター』(1711年から1714年)を創刊し、18世紀市民文学の基礎を築いたことで知られる。姉は夭折し、弟に古典学者ランスロットがいた。ソールズベリーのグラマースクールに通い、父が転任したのちはリッチフィールドの学校に移った。父は債務を抱えたままだった。1686年にチャーターハウス・スクールに転校し、ここでスティールと知り合った。
1687年にオックスフォード大学クイーンズ・カレッジに入り、古典学に秀でて注目され、1689年からモードリン・カレッジの奨学金を得た。1691年に学士、1694年に修士の学位を取り、1697年に仮採用でフェローとなり、1698年に正式に就任して1711年まで務めた。在学中にジョン・ドライデンに詩を献呈し、この詩は1693年にドライデンが出した詩集に収められた。国璽尚書サマーズや財務大臣チャールズ・モンタギューにも詩を献呈し、のちに二人は彼のパトロンとなった。
モンタギューの尽力で政府から200ポンドを得て、1699年8月にグランドツアーに出た。パリではオペラを見たが、フランス語があまり話せず、ブロワで勉強を始めた。1700年夏にパリに戻ったときには、哲学者マルブランシュや詩人ボアローと問題なく対話できるほど上達していた。その後はイタリアへ向かい、嵐でサヴォーナに上陸して陸路を進み、ローマを経て受難週をナポリで過ごした。1702年にウィリアム3世が没して、ホイッグ党のパトロンが官職を解かれたため、官職への道は遠のいたが旅を続け、ウィーン、ドレスデン、ハンブルク、オランダを巡り、1703年にライデンで父の死を知った。
帰国すると、1704年8月のブレンハイムの戦いの勝利を祝う詩の書き手として、ゴドルフィンとハリファックスに推されて、関税控訴委員の官職を代償に詩『戦』を書いた。これは大成功を収めたが、サミュエル・ジョンソンはマールバラ公を「天使」に例えたことなどを挙げて平凡と評している。この成功で文壇と政界での地位が上がり、1705年7月に政務次官となった。1705年に出した『イタリア見聞』は人気を呼び、18世紀のイギリス人が大陸を旅する際の必携書とされるほどだった。1707年に台本を書いたオペラ『ロザモンド』は、英語の歌のみで構成されたが、3日間しか上演されず大失敗に終わった。
1708年の総選挙で出馬して当選したが、対立候補の申立てを受けた選挙委員会は1709年12月に対立候補の当選を宣告した。1709年にはアイルランド総督ウォートン伯の部下として、ダブリンへ赴いた。同年4月にスティールが筆名でエッセイ新聞『タトラー』を創刊し、アディソンは5月から寄稿して、単独で50号、スティールとの共作で20号以上を書いた。1710年3月の補欠選挙でウォートン伯の推薦を受けて当選し、議会で演説したことはなかったが、投票ではホイッグ党の立場を貫いた。一方、収入の減少に悩んだが、数年後に好転し、1713年にラグビーの地所を8,000ポンドで購入した。スウィフトやポープら多くの友人に恵まれ、ボタンズ・コーヒーハウスを集いの場とした。高潔で謙虚な人柄が知られ、1719年6月17日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- パスキエ・ケネル (1719年没)
- ベンジャミン・ホーニゴールド (1719年没)
- マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェ (1719年没)
- ヨハン・エルンスト (ナッサウ=ヴァイルブルク侯) (1719年)
- Magdalene Sibylle of Holstein-Gottorp (1719年没)
同じ地域に関係する人物
- ジミ・ヘンドリックス (1970年没)
- ウィリアム3世 (イングランド王) (1702年没)
- ウィリアム・ボイス (1779年没)
- ヘンリー・ジェイムズ (1916年没)
- シビル・ソーンダイク (1976年没)