伝記
ロムルス・アウグストゥルスは、西ローマ帝国最後の皇帝とされる人物である。465年頃の生まれとされ、在位は475年10月31日から476年9月4日までの約10か月だった。誕生名は単にロムルスで、パンノニア出身の貴族だった外祖父の名にちなむ。帝位についてからはアウグストゥスを称号だけでなく自らの名にも加え、貨幣にはすべて「ロムルス・アウグストゥス」と刻まれた。「アウグストゥルス」は「小アウグストゥス」の意で、幼さに由来する小ばかにした愛称であり、正式に用いられたことはない。ギリシア語圏では「モミュルス(小さな恥)」と蔑まれたという。
父オレステスはパンノニア出身のローマ市民で、かつてフン族のアッティラ王に仕え、のちに軍の総司令官であるマギステル・ミリトゥムとなった。父の父は軍人のタトゥルスで、外祖父は同じくロムルスという名で、449年にアエティウスの使節としてアッティラのもとを訪れた人物である。母の名は分からず、バルバリアといったとも、フラウィア・セレナといったとも説がある。475年、皇帝ユリウス・ネポスは南ガリアの反乱を討つようオレステスに命じたが、与えられた軍にはフォエデラティと呼ばれる蛮族の同盟兵が多く含まれていた。土地の授与を拒んだネポスに対し、オレステスは兵の不満に従って反旗を翻し、8月28日にラウェンナへ入城した。ネポスはダルマティアへ逃れた。
それから約2か月の空位を経て、オレステスは10歳ほどだったかもしれないロムルスを皇帝と宣言した。なぜオレステス自身が帝位につかなかったのかは分からない。東ローマ皇帝ゼノンの承認を期待したためかもしれないとされるが、承認は得られず、ゼノンはダルマティアで帝位を主張し続けるネポスを西の皇帝と見なした。ロムルスは在位の大半を傀儡として過ごし、実際の政務は父が担った。治世の政策や法、碑文はほとんど知られていない。
476年、ヘルール族やスキリア族などからなるフォエデラティがイタリアへの定住地を求めたが、オレステスは拒んだ。指導者オドアケルは出自の不詳な蛮族の将校で、その父エデコはオレステスとともにアッティラに仕えた間柄だった。オドアケルは戦いに勝ってオレステスを捕らえて処刑し、9月4日にはラウェンナを占領して、オレステスの兄弟パウルスも処刑した。ロムルスは廃位され、オドアケルはイタリア王となった。新たな皇帝は立てられず、帝位の印はゼノンに送られた。
オドアケルはロムルスの若さと美しさを理由に助命した。ロムルスは年6,000ソリドゥス金貨の年金を保証され、ナポリ近郊のカンパニアにあるルクッルス荘園を与えられ、従者や一族が付き従った。その後の消息はほとんど知られていない。ルクッルス荘園に480年代か490年代に創立された修道院の創立に関わった可能性が指摘され、そこへ寄付をしたローマ貴族の女性バルバリアが母かもしれないともいう。507年か511年ごろ、テオドリック大王が「ロムルス」という人物とその母に宛てた手紙があり、これが彼を指すなら、そのころまで生きていたことになる。ゴート戦争の記録に名が見えないため、それ以前に亡くなったと考えられている。治世の記録が乏しいため、取るに足らない皇帝とされることが多く、ギボンは建国者と初代皇帝の名を汚したと記した。それでも西側で最後に皇帝と宣言された人物として、その廃位は古代と中世の境目に用いられることが多い。
同じ年に亡くなった人物
- アンモニオス・ヘルメイウ (520年没)
- ゾシモス (520年没)
- John of Cappadocia (520年)
- ボエティウス (520年代没)
- ウィタリアヌス (520年没)
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