伝記
達磨(菩提達磨)は、中国禅宗の開祖とされるインド人の仏教僧である。達磨祖師、達磨大師とも呼ばれ、「ダルマ」はサンスクリット語で「法」を意味する。唐代より前の文献には「達摩」と書かれることもある。絵では、眼光鋭く、髭を生やして耳輪を付けた姿に描かれることが多い。ただし伝説がとても多く、史実としては疑わしい点も少なくない。師から授かった名とされる「ボーディダルマ」は覚りの法を意味し、日本ではダルマと略されて、だるま人形の名のもとになった。禅の文献では、髭の人、耳輪の客、壁を観るバラモン、青い目の蛮人といった呼び名でも知られる。少林寺の武術の祖とする見方も広まっているが、これは20世紀に流布した考えだとされる。生きたのは5世紀後半から6世紀前半とされ、同時代に書かれた記録は乏しい。
伝承によれば、南天竺国の王の第三王子として生まれ、師の般若多羅から法を得て、釈迦から数えて28代目の祖となった。名の由来も伝わり、出家前の名はジャヤヴァルマンまたはボーディダナだったともいう。もっとも古い言及は、547年に楊衒之がまとめた『洛陽伽藍記』にあり、あらゆる達磨伝説はここに始まるともいわれる。弟子の曇林は、達磨が西域の南天竺の生まれだと伝え、道育や慧可といった弟子がいたことを書き留めている。ただ曇林は達磨の弟子ではなく、慧可の弟子だった可能性が高いとされる。
中国に来た時期にも説がある。道宣の伝えるところでは南北朝の宋の時代で、遅くとも479年の斉の成立より前に南越へ来たという。一方、後の『景徳伝燈録』は普通元年(520年)に海を渡り、9月21日に広州に上陸したと伝える。当時の南朝は梁で、仏教を厚く信仰していた武帝は天竺からの高僧を喜んで迎え、達磨に質問をした。のちに武帝は後悔して人を遣わし、呼び戻そうとしたが、かなわなかったという。
達磨は嵩山の少林寺で、壁に向かって9年坐禅を続けたとされる。これは壁観を誤解してできた伝説だという説もある。壁観とは壁のように動じない境地で真理を観ずる禅のことで、達磨の教えの特徴であり、のちの中国禅にも受け継がれた。その宗派は、楞伽経にちなんで当初は楞伽宗と呼ばれた。大通2年(529年)に神光という僧が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨はこれを認めて慧可と改名させた。慧可は禅宗の第二祖であり、以後、中国に禅宗が広まったとされる。達磨は永安元年(528年)に150歳で亡くなったとされる。一説には、名声をねたんだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。諡は円覚大師である。没後の後日譚も伝わる。3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺で片方だけ履き物を持って歩く達磨に出会い、「インドに帰る」と告げられた。のちに墓を開くと、棺には履き物の片方だけが残っていたという。
達磨の語録とされる『二入四行論』は、柳田聖山が最も古い語録とみなした書物である。ただし伊吹敦は、内容が中国人にしか書けないものだと指摘し、作者は慧可であろうと推定している。禅は慧能を経て臨済宗や曹洞宗などに分かれ、日本の宗教にも大きな影響を与えた。面壁九年で手足が腐ったという伝説からは玩具のだるまが生まれ、縁起物の福だるまとして今も親しまれている。また、禅宗では達磨を重んじ、「祖師西来意」、すなわち達磨が西から来た理由とは、仏法の根本の意味を指す言葉である。
同じ年に亡くなった人物
- 法興王 (540年没)
- ウィティギス (540年没)
- ワコー (540年)
- アマラベルガ (540年)
- Comgall mac Domangairt (540年(推定))
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