伝記
法興王は、新羅の第23代の王(在位514年-540年)である。姓は金、諱は原宗または牟即智といい、中国の史書には募秦(『梁書』『南史』では秦)の名で伝えられる。先代の智証麻立干の長男で、母は伊飡(2等官)朴登欣の娘の延帝夫人、王妃は朴氏の保道夫人(『三国遺事』の王暦では巴刁夫人)とされる。514年7月に先王が亡くなると、長子の原宗が即位した。『三国遺事』には法興大王とも記される。
先代の智証麻立干が強めた王権を背景に、国家制度の整備に努めた。517年に兵部を設置し、520年には官位制度を整えて、官職ごとに公服とその色彩の序列を定め、律令による政治を敷こうとしたとされる。531年には17等の京位のさらに上に、すべての国政を司る上大等の官位を設けた。536年には新羅独自の年号を初めて定めて建元と称しており、前代よりいっそう王権を強めたことがうかがえる。
対外面では、521年(梁の普通2年)に百済に伴われて梁へ朝貢した。この梁への使節は523年のこととする説もある。この朝貢では百済が新羅を自らに従う国として紹介したが、高句麗や倭への備えとして百済を必要とする新羅は、それを受け入れたとされる。百済との友好関係(羅済同盟)を背景に、伽耶方面への勢力拡張を図った。522年、伽耶国王が通婚を求めてくると、伊飡比助夫の妹を送って応じたが、532年には金官国を滅ぼした。降伏した金官国王金仇亥の一族は王都に移住させたが、本国を食邑として安堵し、以後は準王族的に優遇したという。仇亥の末子の金武力は新羅に仕えて角干(1等官)にまで上った。服属させた周辺小国の王を貴族階級に取り込むことは、新羅の対外伸張政策の特徴であった。金武力の孫には、のちに三国統一の大功を挙げる金庾信が出ている。
仏教の公認も大きな事績である。新羅ではすでに、高句麗の僧によって早くから仏教が伝えられ、かなり広まっていた。王自身も仏の教えを好むようになっていたが、他の臣下たちは強く反対した。仏教に帰依して剃髪していた臣下の異次頓は、王に仏教を国教とするよう求め続け、ついには自らの殉教を申し出て、公開で処刑するよう願った。王はこれを拒んだが、異次頓はわざと臣下たちを侮辱して王の怒りを招き、公開で処刑された。首を斬られる前に、流れる血は赤でなく乳白色だろうと語り、『三国遺事』によればその予言どおりになったため、臣下たちは恐れおののいた。こうして王は仏教を国の宗教に選んだという。528年には貴族層の反対を押し切って仏教を公認し、534年には興輪寺の建立を始めた。ただし、新羅で真の仏教の自由が始まるのは、次の真興王の代であった。
『三国遺事』の王暦には、十日間の行を行ったことや、殺生を禁じたこと、王の死後に王妃が出家して法流と号し、永興寺に住んだことが伝えられる。また原宗興法条には、王自身も出家して法雲と名乗り、法空と号したともある。540年7月、在位27年で没し、哀公寺の北の峰(慶州市孝峴里)に葬られて、法興王と諡された。孫にあたる真興王が王位を継いだ。名は封平碑や川前里の刻石にも牟即智として刻まれている。家族としては、娘の智召夫人が葛文王立宗に嫁いでおり、側室には玉珍(金氏)や、百済の東城王の娘とされる宝果がいて、王子の金飛大典や金慕郎、王女の南毛らがいたと伝えられる。孫には真興王のほか、将軍の美珍夫(525年-548年)がいる。
同じ年に亡くなった人物
- Vedast (540年)
- ウィティギス (540年没)
- Kaleb (540年没)
- Comgall mac Domangairt (540年(推定))
- ガザのバルサヌフィオス (540年没)