伝記
ガイウス・ソシウスは、共和政末期のローマでマルクス・アントニウスを支持した軍人、政治家である。平民系の家柄に生まれ、ピケヌム地方に由来する可能性がある。父もガイウス・ソシウスを名乗り、一族で最初に知られる元老院議員だったとされる。カエサル暗殺後はアントニウス派に加わり、紀元前四一年から三九年の間に財務官を務めた。ペロポネソス半島の西にあるザキュントス島では、海軍基地と造幣所で職務に当たった。三九年には将来の執政官候補として指名を受けた。翌三八年、アントニウスの東方属州巡察に同行し、シリアとキリキアの総督となった。北フェニキアの島の都市アラドスを服属させた後、ユダヤで王位を争うヘロデを支援するよう命じられた。
紀元前三七年、ソシウスはヘロデとともにエルサレムへ進み、アンティゴノスを包囲して都市を落とした。ヘロデを王位に据え、この勝利によって兵士たちから最高司令官と歓呼された。捕虜となったアンティゴノスを辱めたとされ、都市を全面的に略奪しようとしたが、ヘロデが本人と兵士へ多額の贈り物をして抑えたという。紀元前三五年に総督を交代してローマへ帰り、翌三四年九月三日、ユダヤでの勝利を祝う凱旋式を挙げた。凱旋の頃からマルスの野のアポロ神殿を再建し始め、かつてキリキアのセレウキアで奪った杉材のアポロ像も置いた。その後はローマでアントニウスの利害を守りつつ、執政官への就任を待った。
紀元前三二年、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとともに執政官となった。第二回三頭政治の法的な期限が切れ、アントニウスとオクタウィアヌスの関係が崩れる時期であった。両執政官は、アントニウスとクレオパトラの子らへの東方領土の分与を承認するよう求める書簡を受け取ったが、不人気を恐れて公表しなかった。三頭官が独裁的な権限を返す提案も、その書簡には含まれていた。ソシウスは元老院でアントニウスを称え、オクタウィアヌスを公然と非難し、正式な動議も提出したが、護民官の拒否権によって阻まれた。オクタウィアヌスは武装した兵を周囲に置いて元老院を招集し、ソシウスとアントニウスを批判した。両執政官は支持者の議員たちとローマを脱出し、エフェソスにいるアントニウスとクレオパトラに合流した。ローマでは彼らの官職が剥奪され、クレオパトラのエジプトに対する宣戦が行われた。
紀元前三一年夏、ソシウスは霧に紛れて艦隊を出し、ルキウス・タリウス・ルフスの部隊を破った。しかしアグリッパの援軍が加わると退却を強いられ、同盟するキリキア王タルコンディモトゥス一世も失った。アクティウムの海戦ではアントニウス艦隊の左翼を指揮したが、敗北した。しばらく潜伏した後に捕らえられ、オクタウィアヌスの前に引き出されたものの、ルキウス・アッルンティウスの仲介で赦された。帰国後はアポロ神殿の再建を完成させ、オクタウィアヌスに捧げた。この神殿はソシウスの名を冠して呼ばれるようになった。アウグストゥスのもとでは神官団にも迎えられ、紀元前一七年に復活した競技会では十五人委員の一人だった。平和の祭壇にも、その委員として姿を残す。娘が二人いたことは分かるが、息子の有無は不明であり、晩年や没年の詳しいことも分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・コルネリウス・バルブス (紀元前 60年(推定))
- Orgetorix (紀元前60)
- 蘇武 (紀元前60年没)
- アレタス4世 (紀元前60)
- クィントゥス・マルキウス・レクス (紀元前68年の執政官) (紀元前 60年)
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