伝記
クレメンス12世は、18世紀のローマ教皇で、1730年7月12日から1740年2月6日の死まで在位した。本名はロレンツォ・コルシーニといい、1652年4月7日にフィレンツェで生まれた。教皇庁の財務に通じた人物として活躍し、在位中にラテラノの聖ヨハネ大聖堂の壮大なファサードやトレビの泉を建設したことで知られる。
生家はフィレンツェの裕福な貴族である。イエズス会の学校とローマのコレジオ・ロマーノで学び、1672年にピサへ移って、枢機卿だった伯父ネリ・コルシーニのもとで学んだ。ピサ大学では1680年に法学と教会法の学位を得た。1685年に父が亡くなると、兄弟と交渉して長子の権利を放棄し、家の統領の座と相続の権利を手放して聖職者の道に入り、ローマの使徒座財務院に入った。当時の習慣に従って、教皇インノケンティウス11世から3万スクードで高位聖職者の地位を買い取り、1690年にはさらに8万スクードで、教皇領の物価を定める機関の長官の職を買った。伯父から引き継いだ莫大な財産は、書籍の充実に当てた。同じ年にニコメディアの名義大司教となり、ウィーン駐在の教皇大使にも任じられたが、教皇と皇帝の不和のために赴任しなかった。1695年には使徒座財務院の財務官となり、サンタンジェロ城の監督官などを務めた。
1706年にクレメンス11世から枢機卿に任じられ、1720年にサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の司祭枢機卿となり、1725年にはベネディクトゥス13世から、フラスカーティの司教枢機卿に任じられた。1721年と1724年のコンクラーヴェにも加わっている。1730年、教皇選挙では、有力候補だったインペリアーリ枢機卿がスペイン王フェリペ5世の拒否権で退けられ、決着まで四カ月を要したのち、コルシーニが選ばれた。このとき70代後半で、視力が衰えてベッドにつくことが多かったが、頭脳は明晰で、縁者たちを側近として動かして実務をこなした。同僚の枢機卿は、早く亡くなるだろうと思い、啓蒙的な考えもあって、つなぎの教皇と見ていた。
まず悪化していた教皇庁の財政の立て直しに取り組んだ。財政悪化の原因は、前教皇のもとの財務責任者コスチア枢機卿らの職権濫用にあるとみて、責任者たちに損害賠償を求めた。コスチアは1731年に横領や詐欺などの罪で裁かれ、枢機卿の資格を奪われて、10年の禁固を命じられた。また、ベネディクトゥス13世が禁じた富くじを復活させ、年に50万スクードの収入を得て、急速に財政を立て直した。これを元手に、ローマの建築物の修復や新築を進めた。
ラテラノの聖ヨハネ大聖堂のファサードは競作を行い、アレッサンドロ・ガリレイの案を選んで、聖人像が立ち並ぶ壮麗な姿が完成した。コンスタンティヌス帝の凱旋門の修復、クィリナーレの丘のコンスルタ宮殿の建立、道路の舗装、コルソ通りの拡張、アンコーナの外港の建設も行った。最も有名な業績は、ニコラ・サルヴィに命じたトレビの泉の建設である。6万スクードでアルバーニ枢機卿の美術品と古書籍の収集を購入し、教皇庁のものとした。
サンマリノに侵攻したアルベローニ枢機卿に自制を促し、その独立を保たせた。1738年には、フリーメイソンを排斥する最初の教皇文書「イン・エミネンティ」を出した。ヴィンセンシオ・ア・パウロを列聖し、ジャンセニスムを非難し、東方教会との合同を目指して、アルメニア正教会とコプト正教会の一部に教皇権を認めさせた。亡くなったあとは、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- イーフレイム・チェンバーズ (1740年没)
- ルイ4世アンリ (コンデ公) (1740年没)
- ピエトロ・オットボーニ (1740年没)
- マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク (1740年没)
- オロフ・ルドベック (1740年没)
同じ地域に関係する人物
- フォルコ・ルリ (1970年没)
- クィントゥス・フルウィウス・フラックス (紀元前179年の執政官) (紀元前172年没)
- レギオモンタヌス (1476年没)
- Lorenzo Hervas y Panduro (1809年没)
- アンドレア・デ・チェザリス (2014年没)