伝記
レギオモンタヌスは、15世紀のドイツの天文学者で、数学者としても知られる。本名はヨハネス・ミュラー・フォン・ケーニヒスベルクといい、1436年6月6日に、現在のバイエルン州にあたるケーニヒスベルクで生まれた。レギオモンタヌスというラテン名は「王の山」の意で、故郷の名をラテン語にしたものとされるが、異説もある。この名を初めて用いたのは1534年のメランヒトンだという。名の由来となった町は、のちのプロイセンにあった大きなケーニヒスベルクではなく、下フランケンの町である。
若い頃のことはあまり分かっていないが、11歳でライプツィヒ大学の学生になったと考えられている。1451年ごろにウィーン大学へ進み、ゲオルク・プールバッハの弟子、また友人となった。1452年に学士、1457年に21歳で文学修士の学位を得て、光学と古典文学を講じた。1460年、教皇特使の枢機卿ベッサリオンが外交使節としてウィーンを訪れた。ベッサリオンは、トレビゾンダのゲオルギオスによるプトレマイオス『アルマゲスト』のラテン語訳が不正確だと考え、プールバッハに新しい訳を求めた。プールバッハはギリシャ語が十分でなかったため、要約の作成にとりかかったが、1461年に病に倒れ、最初の6巻を仕上げただけで世を去った。臨終の床でプールバッハはレギオモンタヌスに、この書を完成させて出版すると約束させた。
1461年にウィーンを去ったレギオモンタヌスは、ベッサリオンの家の一員としてイタリアで4年ほどを過ごし、数学や天文学の写本を探して書き写した。当時のイタリアの数学者ビアンキーニやトスカネッリとも親交を結んだ。1464年には三角法の書『あらゆる種類の三角形について』を完成させ、プトレマイオスの『アルマゲスト』の要約も仕上げた。前者は三角法の当時の到達点を示す初期の教科書の一つで、章ごとの復習問題も備えていた。ハンガリー王マーチャーシュ1世のためにアストロラーベを作り、1465年には教皇パウルス2世のために携帯用の日時計を製作した。プールバッハとの研究を通じて、太陽中心説をもつクザーヌスの著作にも関心を抱いたが、なおプトレマイオスの天動説の支持にとどまった。1467年にはエステルゴム大司教ヴィテーズ・ヤーノシュのもとで天文表を計算し、観測儀器を作った。続いてブダのマーチャーシュ王の宮廷でも、高い俸給でギリシャ語の写本を編纂した。
1471年にニュルンベルクへ移り、人文主義者で商人のベルンハルト・ヴァルターの援助を受け、世界初の科学専門の印刷所を設けた。1472年にはプールバッハの『惑星の新理論』を出し、ヴァルターとともに同年の彗星を観測し、視差の角度を使って地球からの距離を見積もろうとした。1475年、教皇シクストゥス4世に改暦の仕事のためローマへ招かれ、途中ヴェネツィアで『位置推算暦』を刊行した。この暦は、のちにコロンブスがジャマイカで月食を利用して現地の人々をだまし、窮地を脱したという逸話に登場する天文表である。教皇からはレーゲンスブルクの司教の待遇を約束されたが、実際に任命されたかどうかは疑わしい。レギオモンタヌスは改暦の仕事を果たせないまま、1476年7月6日に40歳でローマで急死した。ゲオルギオスの縁者による毒殺の噂も伝わるが、疫病による死のほうがありそうだとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アン・オブ・ヨーク (エクセター公妃) (1476年)
- ジャン2世 (アランソン公) (1476年没)
- シモネッタ・ヴェスプッチ (1476年没)
- 尚円王 (1476年没)
- Patriarch Raphael I of Constantinople (1476年没)
同じ地域に関係する人物
- エドマンド・パードム (2009年没)
- Trebatius Testa (紀元前3)
- カルロス4世 (スペイン王) (1819年没)
- エンニウス (紀元前169年没)
- ゼフィリヌス (ローマ教皇) (217年没)