伝記
フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウスは、西ローマ帝国の皇帝で、在位は393年から423年である。384年9月9日に、東方正帝テオドシウス1世の次男として、最初の妻アエリア・フラキアとの間に生まれた。2歳で東ローマ帝国の執政官に任命されたという。西ローマ帝国の実質的な滅亡の一因をつくった暗君として知られる。
392年に西方正帝ウァレンティニアヌス2世が死ぬと、西方では元老院議員エウゲニウスが皇帝に推戴された。これに対しテオドシウスは、393年に9歳の息子ホノリウスを西方正帝と宣言して西へ侵攻し、394年にフリギドゥスの戦いでエウゲニウスらを破り、首都メディオラヌム(現在のミラノ)を占領した。その4か月後の395年1月17日に父が亡くなり、遺言により、兄アルカディウスが帝国の東半分を、ホノリウスが西半分を治めることになった。宮廷はメディオラヌムに置かれたが、まだ10歳だったので、実際の政務は、ヴァンダル族出身の将軍でテオドシウス家の外戚にあたるスティリコが行った。
ホノリウスの治世は不安定であった。彼は西の人々に戴かれた皇帝ではなく、西を征服したテオドシウスに立てられた傀儡だったため、父の死後、次々に反抗を受けたという。アフリカでギルドーの反乱が起こり、ブリタンニア、ガリア、ヒスパニアなどの属州では、軍団や貴族が別の皇帝を担いで宮廷から独立した。409年にはローマの元老院も彼の皇帝の資格を剥奪した。ホノリウスは対立皇帝の一人コンスタンティヌス3世を共同皇帝とし、410年にはブリタンニアの支配権を放棄したとされる。402年に西ゴート族がイタリアに侵入したときには宮廷がラヴェンナへ移され、以後、ホノリウスはそこにこもりきりとなった。蛮族がイタリアを荒らす一方で、ラヴェンナは軍によって徹底して守られていた。
スティリコは、自身の二人の娘をホノリウスと結婚させ、皇帝の義父となった。408年に東方正帝アルカディウスが死ぬと、ホノリウスは新しい東方正帝を置かず、単独で帝国を支配しようとしたが、スティリコが戒めてテオドシウス2世を正帝に昇格させたため、ホノリウスは彼に不満を抱くようになった。スティリコが不在の間に、大臣オリュンピウスが信頼を得て、スティリコを排除して実権を取り戻すよう提案し、ホノリウスも、異母妹ガッラ・プラキディアも反論しなかった。帰国したスティリコはラヴェンナで捕らえられ、義理の息子である皇帝を信じて抵抗せず、408年8月22日に処刑された。息子エウケリウスも同じ年に殺された。
スティリコの処刑で、イタリアの蛮族出身者に動揺が広がり、約三万人がアラリック1世のもとへ逃げた。アラリックは、ローマを包囲して賠償金や解放された人質を得たが、ラヴェンナの宮廷からは侮辱の手紙が返り、元老院はプリスクス・アッタルスを皇帝に選んだ。のちにアッタルスは廃位され、アラリックはホノリウスに帝位を返そうとしたが、会談の場を急襲されて、交渉を断念した。三度目の包囲の末、410年8月24日、彼はサラリア門からローマ市内に入り、三日間にわたって略奪した。
ホノリウスは423年、39歳の誕生日を前に、子を残さず世を去った。彼が娶ったスティリコの二人の娘、マリアとテルマンティアとの間には子ができなかった。死後、元老院はヨハンネスを西ローマ皇帝に推戴した。
同じ年に亡くなった人物
- 明元帝 (423年没)
- エウラリウス (対立教皇) (423年没)
同じ地域に関係する人物
- コンスタンティウス3世 (421年没)
- アルフレード・オリアーニ (1909年没)
- ガストン・ド・フォワ (ヌムール公) (1512年没)
- ペトルス・ダミアニ (1072年没)
- スティリコ (408年没)