伝記
フラウィウス・スティリコは、西ローマ帝国の軍人である。没年は408年8月22日で、生年は日本語版の資料が365年、スペイン語版が359年と記しており、食い違いがある。父は蛮族とされたヴァンダル族出身のローマ軍人、母はローマ人だった。両親の名前や経歴は全く不明だが、スティリコ自身は、自分が生粋の「ローマ人」ではないと自覚していたらしい。当時は、父が蛮族の出であれば、その子は蛮族とされて蔑まれるのが当然と考えられていた。この出自は人生の節目ごとに影を落とし、彼は「半蛮族」「半ローマ人」というアイデンティティに生涯苦しんだ。結局、その血統が世間の不信や政敵たちの讒言を招き、非業の死につながったのである。
若くしてローマ軍に入り、当時帝国の東部を治めていたテオドシウス1世のもとで頭角を現した。スペイン語版によれば、近衛の一員から軍の護民官、さらに護民官と書記官の職へと昇進し、皇帝の側近くに仕えた。383年か384年に、サーサーン朝ペルシアの王のもとへ、アルメニアの分割をめぐる和平交渉の使節として赴き、これを成功させた。テオドシウスはその能力を認め、彼を護衛隊長に取り立てて西ゴート族からの国土防衛を任せ、さらに姪のセレナを養女にしたうえで彼と結婚させた。二人の間には、長男エウケリウス、長女マリア、次女テルマンティアの1男2女が生まれた。
392年にウァレンティニアヌス2世が暗殺されると、スティリコはテオドシウスのもとで軍の一翼を率い、同盟を結んでいた西ゴート族の族長アラリックとともに、フリギドゥスの戦いで勝利を収めた。奮闘ぶりを認められ、西ローマの防衛を担える人物として高位の軍司令官に任命された。394年にテオドシウスが東西を統一すると、軍の総司令官に任じられ、翌395年にテオドシウスが没して、東半分が長男アルカディウス、西半分が次男ホノリウスに移ると、西の皇帝ホノリウスの後見人を務めた。
同じ年、アラリックは正式に王となり、同盟を破ってトラキアで略奪を始めた。スティリコは東西の軍を率いて出兵したが、東ローマの側近ルフィヌスの画策で、決戦の直前に東の部隊が撤退を命じられ、戦わずに退いた。397年にはマケドニアでアラリックを破ったが、山岳へ逃げられて捕らえられなかった。同じ年、アフリカで起きたギルドーの反乱を鎮め、ラエティアではヴァンダル族との戦いに当たった。東ローマのエウトロピウスは、スティリコの勢力が伸びるのを嫌い、398年にアラリックをイリュリクムの総司令官に任じて、西へ侵入させた。401年にゴート族がミラノを包囲すると、ブリタンニアやガリアの兵力まで集めて対抗し、402年にポレンティアとヴェローナでアラリックに勝った。
しかし、ライン川流域から戦力を引き抜いたことで防備が薄くなった。スペイン語版によれば、406年の冬にヴァンダル族とアラン族が凍ったライン川を渡り、407年春にはガリアとブリタンニアでコンスタンティヌス3世の簒奪も防げなかった。また、彼は古い予言の書の焼却を命じたとされ、ローマの有力者の反感を買った。408年、ホノリウスは側近の讒言で、彼が反逆を企てていると信じ、8月22日にスティリコを処刑させた。息子エウケリウスも殺され、セレナも処刑されて、その家系は途絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- セレーナ (408年没)
- Olympias the Deaconess (408年)
- アルカディウス (408年没)
同じ地域に関係する人物
- ホノリウス (423年没)
- ルイージ・カルロ・ファニーニ (1866年没)
- アニータ・ガリバルディ (1849年没)
- ガストン・ド・フォワ (ヌムール公) (1512年没)
- オドアケル (493年没)