伝記
マルクス・ウァレリウス・ウォルススは、共和政ローマ初期の政治家・軍人で、紀元前505年に執政官(コンスル)を務めた。同僚の執政官はプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスであった。父はウァレリウス・ウォルススで、兄弟に前509年、508年、507年、504年の執政官を務めたプブリウス・ウァレリウス・プブリコラと、前494年の独裁官マニウス・ウァレリウス・マクシムスがいる。子のルキウス・ウァレリウス・ポティトゥスは、前483年と470年に執政官となった。ただし、この時代のローマの人物や制度の多くと同じく、実在や事績の実際は確かではなく、史料の語る伝承は大きく書き換えられ、ゆがめられているとも指摘される。
プルタルコスによれば、その家系は、ローマの建国から間もないころにサビニ人とローマ人の和解を仲立ちし、両者の平和に貢献した最初期のウァレリウス氏の一人にさかのぼる。ディオニュシオスも、ティトゥス・タティウスとともにローマへ来たサビニ人の子孫だと述べている。王政が倒れて共和政が始まったのち、ユピテル・オプティムス・マクシムス神殿はまだ奉献されていなかった。元老院の決定により、その栄誉はマルクス・ホラティウス・プルウィッルスに与えられた。もう一人の執政官プブリコラは、ウェイイ人に対する軍事行動で都を離れていた。ウォルススは一族とともに、あらゆる手を使ってこの奉献を妨げ、プブリコラが戻るまで延ばそうとした。そのため、プルウィッルスの息子が死んだという噂まで流されたが、執政官は動じず、奉献を行ったという。
前508年、追放された元ローマ王タルクィニウス・スペルブスが身を寄せたクルシウムの王ラルス・ポルセンナが、軍を率いてローマに侵攻した。ウォルススは防衛戦に指揮官の一人として加わったと思われる。執政官ティトゥス・ルクレティウス・トリキピティヌスのもとで右翼を率いたが、押し寄せた敵兵を食い止められず、執政官が傷を負う事態になったとされる。
3年後の前505年、ウォルススは執政官となった。この年、サビニ人がローマの領内に侵入した。ウォルススは軍の指揮を得て追撃し、アニオ川のほとりで敵と対陣した。しばらくにらみ合いが続いたのち、川の岸で戦いが始まった。ウォルススは目の前のサビニ人を押し返したが、もう一方の翼は後退し始め、同僚のトゥベルトゥスがスプリウス・ラルキウスに騎兵をつけて送って、ようやく持ち直した。そののち歩兵が敵を打ち破り、サビニ人は逃げ出し、夜になって全滅を免れた。この勝利により、二人の執政官は凱旋式を挙行し、国費でパラティウムの丘に邸宅を建てる栄誉も与えられた。
前501年、ラテン人はタルクィニウスの娘婿オクタウィウス・マミリウスに率いられ、ローマに対して反抗の気配を見せていた。ウォルススは使節として近隣の都市へ送られ、人々の気持ちを静めようとした。ラテン人は戦争の準備をしていたが、その集会でウォルススは、ローマがラテン人に対する約束をすべて守っており、戦争の口実はないと説いた。それでもマミリウスとタルクィニウスは、ローマとの条約の破棄を集会の票決にかけることに成功し、まもなく戦争が宣言された。最期はレギッルス湖畔の戦いであった。年代は前499年とも前496年ともされ、ローマは勝利したが、ウォルススは戦死した。戦いが山場を迎え、ラテン軍が崩れかけたとき、タルクィニウスの子が、亡命ローマ人の部隊を連れて進み出て、戦況を立て直した。ウォルススはこれに向かって突進したものの、敵兵に殺されたとされる。
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