伝記
ヒスティアイオスは、リュサゴラスの息子で、紀元前6世紀後期のミレトスの僭主である。小アジアのミレトスなどイオニアの諸都市はアケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世に支配されており、王は一般にギリシア人を僭主に任じて各都市を治めさせた。ヒスティアイオスもそうした王の臣下の一人であった。
ヘロドトスによれば、ヒスティアイオスは他の僭主たちとともにペルシア軍のスキタイ遠征に随行し、ドナウ川に架けられた橋の守備にあたった。スキタイ人は僭主たちに橋を放棄するよう勧めた。当時ケルソネソスの僭主だったアテナイのミルティアデスはこの勧めに従おうと主張したが、ヒスティアイオスは、自分たちの地位は王のおかげであり、王が倒れれば僭主の座を失うと述べて反対したという。そこでスキタイ人に従うふりをすることになり、ヒスティアイオスは使者としてスキタイ人のもとへ赴き、残った僭主たちは橋を壊すまねをした。スキタイ人がペルシア軍を探しに去ったあと、ヒスティアイオスらは船を整え、ペルシア軍を川の向こうへ渡したと伝えられる。
この遠征の間、ヒスティアイオスの部隊はストリュモン川のミュルシノス、のちにアムフィポリスができる場所に入植地を築き始めていた。サルディスに戻ったあと、ダレイオス1世が望みを尋ねると、ヒスティアイオスはミュルシノスを求め、王はこれを認めた。ペルシアの司令官メガバゾスは、そこが銀や材木の産地であり、ヨーロッパへ通じる要路を押さえる要地であることから、ヒスティアイオスの意図を疑った。それでも王は忠誠を疑わず、友人であり助言者として自分とともにスーサへ来るよう求めた。ミレトスには、ヒスティアイオスの甥で婿でもあるアリスタゴラスが残された。
ヘロドトスによると、ヒスティアイオスはスーサでの暮らしに不満を抱き、ミレトスでの地位を取り戻そうとしてイオニアでの反乱を企てた。紀元前499年、最も信頼する奴隷の頭を剃ってそこに伝言を刺青し、髪が伸びるのを待ってアリスタゴラスのもとへ送った。伝言はペルシアに対して反乱を起こせという内容だったとされる。ナクソス島遠征の失敗で人望を失っていたアリスタゴラスはこれに従い、アテナイとエレトリアの援軍を得てサルディスを攻めて焼いた。反乱を知った王に呼ばれたヒスティアイオスは何も知らないふりをして、鎮圧のために自分を派遣してほしいと願い出て、許されたという。ところが途中のサルディスで、総督アルタフェルネスが事件の全貌に気づいたため、ヒスティアイオスはキオス島へ逃れた。キオスで艦隊を整えようとしたが成功せず、ミレトスの僭主に復帰しようとしたものの、僭主政の復活を望まない人々によってレスボス島へ追放された。そこで船を集め、ビュザンティオンを拠点に黒海やエーゲ海で海賊行為を働いたと、ヘロドトスは語る。
紀元前494年、ペルシア軍はラデ沖の戦いで反乱の指導者たちを破った。これを知ったヒスティアイオスはビュザンティオンを離れ、キオス島を攻撃し、タソス島を封鎖し、さらに本土に上陸してペルシア軍を攻撃しようとした。ギリシア勢とともにペルシア軍と戦ったが、ペルシアの将軍ハルパゴスに捕らえられた。アルタフェルネスは、スーサへ送り返せばダレイオス1世が赦すだろうと考えて、ヒスティアイオスを串刺しにして処刑し、その首を王のもとへ送った。ダレイオスはなおヒスティアイオスを逆賊とは信じず、首を丁重に葬ったともいわれるが、すでに王が彼を信じておらず、名誉ある埋葬もしなかったと伝えるものもある。
同じ年に亡くなった人物
- ヒュスタスペス (紀元前 494年)
同じ地域に関係する人物
- クレオパトラ (紀元前307)
- エウナピオス (414年没)
- ポリュクラテス (紀元前515年没)
- Hegesias of Magnesia (紀元前200)
- Mutercim Rusdu Pasa (1882年没)