HISTORICAL PERSON · 1786年没

ペドロ3世 (ポルトガル王)

ポルトガル女王マリア1世の王配で共同統治王。姪のマリアと結婚したが、政治には関心を示さず、狩りや宗教儀式に時間を費やした。

生涯
1786年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / シントラ)
出生地
ポルトガル共和国(リスボン)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

ペドロ3世は、ポルトガル女王マリア1世の王配で、共同統治王(在位1777年から1786年)である。1717年7月5日、リスボンで、ジョアン5世と王妃マリア・アナの四男として生まれた。王妃は神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇女で、先王ジョゼ1世は兄にあたる。父の寵愛した子で、クラト修道院の大修道院長、王子の次男以下が受け継ぐインファンタード家の領主の地位を授けられ、スペインの金羊毛騎士団の騎士にもなった。兄である王太子ジョゼとは、時に反目したともされ、兄の治世には、宮廷を離れてケルースに引きこもるよう命じられたこともあった。1742年7月にベージャ公となった。ケルースの別荘を1747年から改築する計画を主導したのも彼で、ポルトガル人建築家のマテウス・ヴィセンテ・デ・オリヴェイラと、フランス人のジャン=バティスト・ロビヨンが携わった。

1760年、王太女であった姪のマリアと結婚し、ブラジル王子と称された。1777年にマリアが即位すると、その王配として共同統治王となった。夫妻の間にはジョゼ(王太子となったが即位前に没した)、ジョアン(夭逝)、マリア・クレメンティナ(夭逝)、マリア・イザベル、ジョアン(のちのジョアン6世)、マリア・アナ・ヴィトリアが生まれた。政治にはまったく関与せず、統治は妃に任せきりで、もっぱら狩りや宗教的な儀式に時間を費やしたという。

信仰心が篤く、のちの歴史家オリヴェイラ・マルティンスは、彼を「聖具室係」と呼んで、醜い顔のうつろな男のように描いたが、女王の伝記を書いたカエターノ・ベイラオンはその戯画を批判し、国王夫妻の信仰は聡明な知性に裏づけられたものだったと述べている。ポンバル侯が1759年に追放したイエズス会士を擁護し、彼らから受けた教えは忘れないと述べて、のちの会の復活に貢献したとされる。即位後は、ポンバル侯の敵の訴えに耳を傾け、侯とその支持者への弾圧をさらに進めたいと望んだことが知られ、フランスの外交官ヴェルジェンヌは、この「迫害の考え」を懸念して書き残している。

妃をこよなく愛し、妃からも愛され、妃は彼の願いをほとんど聞き入れたが、それは「たいてい場違いなもの」と評された。人物について問われると、「適任で適格だ」と答えるのが常で、この二語が融合した言葉から、「カパシドニオ」という不名誉な渾名で呼ばれた。1779年10月24日には、女王が男子の誕生を願って立てた誓いを果たすため、エストレラ大聖堂の礎石を据えた。高位貴族の保護者でもあり、タヴォラ家事件で処刑された人々の遺族の訴えを後押しした。

1786年5月25日、リスボンのアジュダ宮殿で68歳で没した。共同統治の九年間であった。その死は、他の出来事とともに、女王の精神の変調に影響を及ぼしたとされる。遺骸はサン・ヴィセンテ・デ・フォーラのブラガンサ家霊廟に葬られた。

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