伝記
マクシミリアン・ロベスピエールは、フランス革命期の有力な政治家であり、代表的な革命家である。1758年5月6日にアラスで生まれ、1794年7月28日にギロチンで処刑された。国民議会や国民公会で頭角を現し、ジャコバン派および山岳派の指導者となった。直接に参加した事件は最高存在の祭典とテルミドール9日の政変のみで、言論活動によって権力を得た人物である。
アルトワ州の地方都市アラスで、法曹家の父フランソワと、ビール製造業者の娘ジャクリーヌ・カロの子として生まれた。家は「ド」の小辞を使う権利をもっていたが、貴族ではなかった。母は結婚の時点で妊娠五カ月で、敬虔さを重んじるアラスでは不名誉なことであり、この出生の瑕疵は彼を生涯苦しめたといわれる。1764年、母は五番目の子の出産中に亡くなり、父は家族と暮らさなくなり、マンハイムへ去って以後、子供たちに会うことはなかった。妹二人は叔母に、マクシミリアンと弟オーギュスタンは母方のカロ家の祖父母に引き取られた。孤児のように不幸に育ったと語られることが多いが、歴史家によれば、それは事実ではなく、叔母たちの温かい支えを受けていた。読書や模型作りに熱中する内向的な少年となり、8歳でアラスのコレージュに通って、すぐに群を抜いた存在になった。
奨学金を得て、12歳でパリのルイ=ル=グラン学院に入り、8年間の寮生活を送った。古典を重んじるカリキュラムの中で、キケロの思想が特に影響を与えたとされる。同窓のカミーユ・デムーランがいた。1775年にはルイ16世の誕生日の賛辞を朗読する大役に指名された。1780年に優秀な成績で卒業し、翌年アラスで弁護士を開業した。
1789年に三部会が招集されると立候補して当選し、憲法制定国民議会ではジャコバン派に属して演説の力を高め、リベラルな政治家として活躍した。1791年には、現職議員の次期立法議会への立候補を禁じる法案を成立させた。立法議会が発足すると一時下野して、『有権者への手紙』という新聞を発行し、世論の支持を固めた。ヴァレンヌ事件後は、反戦と革命の継続を唱えて少数派の左派にとどまった。1792年、国民公会選挙にパリから立候補してトップ当選した。ダントンやマラーと比べて法を尊重し、民衆クラブにも通わなかった。「清廉の人」という呼び名は、金や権力に弱い人物と区別するものであった。
1793年7月27日に公安委員会に選出され、強力な革命政権の確立に邁進した。ルソーの思想に影響を受け、公共の福祉を重んじた。ただし公安委員会のリーダーだったわけではなく、他の委員と集団で統治し、急進派と穏健派の中間にいた。国外からの攻撃とヴァンデの反乱などの内乱に直面して恐怖政治が導入されると、ロベスピエールも恐怖は専制者の武器だと考えながら、混乱を収めるためこれに同意した。やがてエベール派とダントン派が裁かれ、特に親しかったダントンとデムーランの処刑は、彼を心身ともに疲弊させた。1794年6月8日には、非キリスト教化が政治問題となったことを受け、無神論を否定する最高存在の祭典を挙行した。
行き過ぎた弾圧を行っていた派遣議員たちは、ロベスピエールの目を警戒し、先手を打った。7月27日(テルミドール9日)、フーシェ、バラス、タリアンらは反対派をまとめ、国民公会でロベスピエール派の逮捕を可決させた。市役所に急行して蜂起を促そうとしたが、国民衛兵に包囲されて逮捕され、弟オーギュスタンやサン=ジュストらとともに処刑された。死後、タリアンらは彼を恐怖政治の首謀者として説明したが、評価は今も分かれる。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=バティスト=ジョゼフ・ゴベル (1794年)
- アレクサンドル・ド・ボアルネ (1794年没)
- フレゼリク・クリスチャン1世 (1794年没)
- パイシイ・ヴェリチコフスキー (1794年)
- クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ (1794年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン (1753年没)
- ユリウシュ・スウォヴァツキ (1849年没)
- フランソワ・ビエト (1603年没)
- ポール・ローゼンバーグ (美術商) (1959年没)
- アンヌ・ド・モンモランシー (1567年没)