伝記
テオデリンダ(テオドリンダ)は、570年頃に生まれ、628年に没したランゴバルド王国の王妃である。バイエルン公ガリバルド1世と妃ワルドラーダの娘で、母方をたどると、かつてのランゴバルド王ワコの家系に連なるとされる。フランス語圏の記述では、はじめフランク王国のメロヴィング家の王キルデベルトと婚約し、結婚したものの、王の母ブルンヒルドによって585年にその結婚が取り消されたともいう。
588年、ランゴバルド王クレフの子である王アウタリに嫁いだ。ローマ教皇グレゴリウス1世が、バイエルンのカトリックの王女とアリウス派のランゴバルド人を結びつけることに関心を持っていた可能性も指摘されている。しかし、アウタリは590年に死去し、結婚生活は短かった。夫の死後、彼女は王国にとどまって次の王を選ぶことを求められたといい、わずか2か月後にトリノ公アギルルフを選んで再婚した。この伝承は助祭パウルスに由来するが、歴史家ロジャー・コリンズは、実際には政治的な取引や力による圧力があったと考えている。アギルルフは591年5月にミラノで王に推戴されたとされる。
テオデリンダはニカイア派(カトリック)の熱心な信者で、アリウス派と対抗しつつ、イタリアにこの信仰を復活させようとした。夫アギルルフは当初アリウス派にとどまったが、息子アダロアルドがカトリックの洗礼を受けることは認め、この洗礼は603年に行われたとされる。王が公たちから、征服された人々の信仰に傾いたと疑われて苦境に立たされたことも伝わる。それでも王は、彼女の信仰がビザンツ帝国に対する政策を左右することは許さなかった。彼女は教皇グレゴリウスと手紙をたびたび交わし、その一部は8世紀の歴史家パウルスが書き留めている。手紙には夫の改宗に関する内容も含まれていた。教皇は彼女に、シリア・パレスチナ産の銀の聖油容器、福音書の容れ物、ビザンツの金の十字架などを贈り、モンツァ大聖堂の宝物庫に残る金メッキ銀の雌鶏と雛の像も、教皇の贈り物だったと考えられる。彼女はカトリックの宣教師を領内に迎え、ボッビオなどに修道院を建てたともいわれる。アギルルフがカトリックに改宗すると、ロンバルディアやトスカーナに多くの教会が建てられ、洗礼者ヨハネに捧げられたモンツァ大聖堂やフィレンツェ最初の洗礼堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂もその中に数えられる。
616年のアギルルフの死の少し前に、彼女は息子アダロアルドの共同統治者に指名され、息子が成人してからも626年まで共に王国を治めた。アペニン山脈とアルプス山脈にはさまれたイタリア半島の広い範囲に影響力を及ぼし、30年以上にわたって大きな力を保ったとされる。娘ゴンデペルガはアリオアルドと結婚し、のちにロタリ王の妃となった。
テオデリンダは628年にモンツァで没し、自らが創建した聖堂に葬られたと伝わる。のちに列聖された。モンツァ大聖堂の宝物として名高いロンバルディアの鉄王冠は、彼女の時代から言及されるようになる。大聖堂の左側にはテオデリンダ礼拝堂があり、1444年にグレゴリオ・ザヴァッタリがテオデリンダと鉄王冠の関係を物語るフレスコ画を描いた。ミラノに工房を構えたザヴァッタリ家による壁画は、助祭パウルスの『ランゴバルド史』などの場面を、45の場面、5段の画面にわたって描き、彼女の生涯を語る。1817年には、ロイヒテンベルク公ウジェーヌが末の子にテオデリンダと名づけている。
同じ年に亡くなった人物
- 推古天皇 (628年没)
- ホスロー2世 (628年没)
- バールバド (628年)
- ウンム・ルーマーン (628年)
- シーリーン (サーサーン朝) (628年)
同じ地域に関係する人物
- ルパート・ホラース (1954年没)
- ヤーノ・サーリネン (1973年没)
- ヴィットリオ・ブランビラ (2001年没)
- グアルティエロ・ガルマニニ (1976年没)
- カルロ・アクティス (2006年没)