HISTORICAL PERSON · 紀元前465年没

クセルクセス1世

アケメネス朝ペルシアの王で、ダレイオス1世の子。ペルシア戦争で大規模なギリシア遠征を行ったことで知られ、即位後はエジプトの反乱を鎮圧した。

生涯
紀元前465年没
死亡地
アケメネス朝(ファールス州 / ペルシア)
出生地
—
出典
世界地図
アケメネス朝(ファールス州)

伝記

クセルクセス1世は、アケメネス朝ペルシア帝国の王で、クセルクセス大王とも呼ばれる。在位は紀元前486年10月から紀元前465年8月までである。紀元前519年頃、あるいは紀元前518年頃に、ダレイオス1世と王妃アトッサの子として生まれた。母アトッサは帝国の創始者キュロス2世の娘で、大きな権力を持っていた。加えて、父が王となった後に最初に生まれた息子だったため、クセルクセスは異母兄アルトバザネスらを差し置いて王太子に指名された。これは首都ペルセポリスで発見された浮き彫りにも示されている。ギリシアの対話篇の記述に基づき、王子は宦官に育てられ、7歳から乗馬と狩りを学び、14歳からは貴族出身の教師に真実と勇気と自制を教えられたと考えられている。紀元前486年10月に父が世を去り、クセルクセスが王位を継いだ。

父は崩御の直前、エジプトの反乱を鎮められないまま、ギリシアへの再遠征も計画していた。王位を継いだクセルクセスは、まず速やかにエジプトへ軍を送って反乱を抑え、弟を総督に任じた。紀元前484年にはバビロニアで反乱が起こったが、この年のうちに鎮圧された。また、反乱地域の中に邪神ダエーワを崇拝する地域があったとして、その崇拝を禁じ、アフラ・マズダー神を崇めさせたと碑文に記されている。場所は明らかでない。

ギリシア遠征には当初乗り気ではなかったが、いとこのマルドニオスの進言によって決断したとされる。準備として、アトス岬に3年をかけて運河を掘るなどした。紀元前480年、自ら率いた膨大な陸海軍でヘレスポントス海峡を渡り、侵攻を始めた。8月、陸のテルモピュライではスパルタ王レオニダス1世率いるギリシア軍を破り、海のアルテミシオンではほぼ互角に戦った。ギリシア海軍はサラミス島へ退き、9月にペルシア軍はアテナイを含むアッティカを占領して、市を破壊した。しかしサラミスの海戦でテミストクレス率いるギリシア海軍に敗れた。この結果を知ったクセルクセスは、軍をマルドニオスに委ねて撤退した。翌紀元前479年8月、残された軍はプラタイアの陸戦とミュカレの海戦で敗れ、遠征は失敗に終わった。以後、大規模なギリシア遠征は行われず、戦争の最終的な終結はそこから約30年後だった。

その後は、父の事業を引き継いで、ペルセポリスとスーサで建築を進めた。ペルセポリスではクセルクセスの門や自身の宮殿を手がけ、玉座の間は次の代に完成した。ヴァンの近くなどにも碑文を刻ませた。ヘロドトスによれば、いとこのサタスペスにアフリカの周航を命じたが、成功しなかったという。旧約聖書のエステル記などに登場するアハシュエロス王は、一般にこのクセルクセスを指すとされ、王妃エステルの物語を通じて、ユダヤ人の祝祭プーリームの由来に関わる。

即位から21年ほど経った紀元前465年8月、宦官の協力を得た近衛隊長によって暗殺された。王墓はナクシェ・ロスタムにある。王太子の長男もこれに関連して死んだ。その経緯は伝承によって食い違う。アルタバノスが長男を父殺しの罪で告発し、別の息子アルタクセルクセス1世を説得して処刑させたとも、アルタバノスが長男を絞殺したのち報復を恐れて王を殺したとも述べられる。いずれにせよ王位は、アルタクセルクセス1世が継いだ。

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