伝記
シャープール1世は、サーサーン朝ペルシア帝国の第2代皇帝である。初代皇帝アルダシール1世の子で、215年頃に生まれ、272年頃に没したとされる。即位は241年頃、在位を240年からとする記述もある。名は中期ペルシア語で「王」と「息子」を合わせた語に由来し、「王子」を意味する。
父アルダシールは、祭司サーサーンの孫で、パルティア王国の要塞の指揮官を務めていたが、三世紀初めにアルサケス朝に反乱を起こした。メセネやカラケネを占領し、224年にホルミズダガンの戦いでパルティア王アルタバノス4世を破って殺し、226年にクテシフォンでアルダシール1世を名乗ってサーサーン朝を創始した。シャープールの正確な生年は不明で、父が王女を娶って生まれたとする伝説も、史実ではないとされる。彼はある期間の共同統治を経て、241年に父が死ぬと王に即位し、単独で統治するようになった。
対外戦争に力を注ぎ、西方ではローマ帝国と何度も戦った。ニシビスやカルラエなどの要塞を落とし、シリアに進んだが、243年に敗れてメソポタミアを退いた。翌244年にはミシケの戦いでローマ軍を破り、皇帝ゴルディアヌス3世は死んだ。戦死とする記述のほか、部下のフィリップスに殺されたとする記録もある。フィリップスはペルシアと講和を結んだ。253年にもローマ軍を降し、アルメニアを征服してアンティオキアを略奪した。260年にはエデッサの戦いでローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。伝承では、皇帝は交渉を試みる場で捕らえられたという。ローマ皇帝が捕らえられたのは、これが初めてだった。この勝利を記念して、ナクシュ・エ・ルスタムの岩壁には、ウァレリアヌスが馬上のシャープールに降伏する姿を刻んだレリーフがある。261年にはカッパドキアに進出したが、パルミラの実力者オダエナトゥスに敗れた。オダエナトゥスはカルラエとニシビスを奪い返し、王の後宮まで捕らえたとも伝わる。ペルシアの勢力拡大はユーフラテス川以東にとどまった。このとき捕らえた捕虜を使って、スシアーナ地方に灌漑用の堤を築いたと伝えられる。
東方では、中央アジアから北インドを支配していたクシャーナ朝と戦い、これを破ってアフガニスタンに進出した。ソグドやサカなどの脅威に備えて、ホラーサーンの守りとなる城塞都市「ネーウ・シャープフル」を建設したと伝えられ、これが後のニーシャープールの前身となった。こうした征服によって、碑文や貨幣の銘文に、父の「エーラーンの諸王の王」を超える「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」の称号を初めて名乗り、これは歴代の君主に受け継がれた。
文化の面では、ギリシアとインドの医学、天文学、哲学に深い造詣を示し、研究と翻訳を進めた。宗教では、ゾロアスター教を国教に定める一方、242年に預言者マニと会い、新興宗教のマニ教に強い関心を示して保護した。おかげでマニは、ペルシア全域とその周辺で伝道し、信者を増やし、教会を組織し、ローマ領内にも宣教師を送ることができた。マニがシャープールに捧げた『シャープーラカン』は、王とマニの宗教上の相互理解を記している。王妃グルズァドとのあいだに、後継者ホルミズド1世と、アルメニア王となったナルセをもうけた。年表では、272年にアウレリアヌス帝がパルミラを征服した年に没し、ホルミズド1世が跡を継いだとされる。
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