伝記
シャー・シュジャーは、イランを支配したムザッファル朝の第2代君主である。1331年に生まれたとも、1333年3月10日に生まれたともいわれる。初代君主ムバーリズッディーン・ムハンマドの長男で、母はクトルグ・ハン朝の君主クトブッディーン・シャー・ジャハーンの娘マフドゥーム・シャーである。1341年に父がケルマーンを征服すると、同地に住むモンゴル系部族の長の娘との縁組が整えられ、この結婚で3人の王子と王女パーディシャーフ・スルターンが生まれた。のちには、父が詩人サアディーを宗教上の理由から咎めてその墓を壊そうとしたとき、それを思いとどまらせたと伝えられる。
1358年とも1359年ともいわれる年に、シャー・シュジャーは弟のシャー・マフムードとともに、父が三男に位を譲るのではないかと疑って、父をイスファハーンに幽閉し、焼きごてで目を潰した。父は1364年に死んだ。シャー・シュジャーは国政を執り、シャー・マフムードにイスファハーン州を与えたが、二人はまもなく不和になり、戦いを繰り返した。1363年には弟のシャー・マフムードに兵を向けたが、まもなく和平が結ばれた。ところが翌1364年、マフムードはジャライル朝のシャイフ・ウヴァイスの娘を妻とし、その後ろ盾を得てファールスに侵入してシーラーズを奪った。シャー・シュジャーが首都を取り戻したのは1366年のことである。
1374年にシャイフ・ウヴァイスとシャー・マフムードが死去し(マフムードの死は翌年ともいわれる)、シャー・シュジャーは脅威から免れた。ジャライル朝ではウヴァイスの子フセインが後を継いだが、柔弱であったため、彼は精鋭1万2千を率いてアーザルバーイジャーンに侵攻し、カズヴィーン城を攻略して、迎撃に来たフセインを破った。アーザルバーイジャーンとアッラーンの占領は4か月ほどで、ファールスの情勢が悪化して切り上げたともされる。弟の子シャー・ヤヒヤがイスファハーンで反乱を起こすと、ジャライル朝との和睦を図り、息子ザイヌル・アービディーンとフセインの妹との縁組を申し出たが、拒まれて攻め込まれた。ただしソルターニーイェより先には進ませなかった。1383年には酒に酔って息子のスルタン・シェブリの目を潰し、翌日に後悔した。その後、母マフドゥーム・シャーと甥のシャー・フセインが相次いで亡くなり、自らも飲酒が過ぎて重い病にかかった。同じ1383年には、アーザルバーイジャーンで戦っていたティムールに手紙を送って息子たちを託し、ティムールは婚姻による同盟を求めた。1384年に孫娘がティムールの孫ピール・ムハンマドの妻として送られ、婚礼はバルフで行われた。
1384年10月9日、シャー・シュジャーは亡くなった。死の前に長男ザイヌル・アービディーンを後継者に、弟のイマードゥッディーン・アフマドをケルマーンの総督に指名していたが、これに不満のシャー・ヤヒヤはシーラーズに進軍し、イスファハーンの市民に追われてヤズドへ逃れた。ザイヌル・アービディーンは、父がとってきたティムールへの宥和策を続けなかった。
長い治世のあいだに王国はバルーチスターンからアッラーンにまで及んで最盛期を迎えた。学問や神学を深く修めた洗練された君主で、みずからも詩を作る学識人であり、学術や文芸を支えた。厳しい面もあったとされる。詩人ハーフィズは、その治世のあいだに詩人としての活動の大半を送り、作品の中で39回、彼に触れている。18世紀のザンド朝のカリーム・ハーンは、その墓所を修復した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ウィクリフ (1384年没)
- トマ・プレリュボヴィチ (1384年没)
- ディミトリオス・カンダクジノス (1384年没)
- フランチェスコ1世・ガッティルシオ (1384年)
- ルイ2世 (フランドル伯) (1384年没)