HISTORICAL PERSON · 1804年没

アレクサンダー・ハミルトン

アメリカ建国の父の1人。憲法制定会議を発案して憲法の起草に関わり、『ザ・フェデラリスト』の主執筆者で、初代財務長官を務めた。

生涯
1804年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
セントクリストファー・ネイビス(チャールズタウン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

アレクサンダー・ハミルトンは、1755年1月11日に英領西インド諸島のネイビス島で生まれ、1804年7月12日に亡くなったアメリカ合衆国建国の父の一人である。政治家であり憲法思想家で、独立戦争では総司令官ジョージ・ワシントンの副官を務めた。父はスコットランドの地主の四男だったが、一商人にすぎず、のちに破産して零落した。母はフランスのユグノーの子孫という。建国の父たちの多くが名門の出であるなかで、誇るべき家柄がなく内縁関係の両親から生まれた彼は例外であった。1768年に兄とともに孤児となり、ニューヨーク商人の店で働き始め、4年後には店主に代わって店を任されるほどの経営能力を示した。

1771年に自作の詩が新聞に載り、翌年にはハリケーンを報じた手紙が優れた文章として認められて、雑誌に掲載された。店主や親類の援助により、1773年にニューヨークのキングズカレッジ(現在のコロンビア大学)に入り、政治学を学ぶとともに、歴史、文学、政治哲学の読書を始めた。1774年から大陸会議を擁護する論文を公刊し、これが独立革命に関する最初の公的文書となった。1776年3月にニューヨーク植民地砲兵中隊の大尉に任命されて独立戦争に従軍し、1777年からはワシントンの副官となって中佐を務めた。軍務のかたわらヒュームやホッブズを読み、1778年には軍需品納入をめぐる不正を摘発した。1781年10月、ヨークタウンの陥落で陣頭に立ち、10番堡塁を落とした。

軍務を解かれると弁護士を目指し、1782年にはニューヨーク邦の大陸会議議員に選ばれて、課税権の強化を唱えた。1786年にアナポリス会議の委員に選ばれ、新しい議会の開催を各邦に求める声明文を起草した。1787年にフィラデルフィアの憲法制定会議に代表として派遣され、9月17日に合衆国憲法の草稿を作成して署名した。10月27日からジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイと協力して『ザ・フェデラリスト』の論文を執筆し、憲法の批准を促した。司法による違憲立法審査権の理論も、そこに由来する。1789年9月11日、ワシントン内閣の初代財務長官に任命された。

1790年から91年に連邦議会へ提出した報告書は、公信用、国立銀行、製造業など多岐にわたった。一方で、「マリア・レイノルズ事件」の不倫の暴露や、公債操作による不当利益の疑惑が取りざたされ、トーマス・ジェファーソンら政敵との確執が強まった。1794年のウィスキー税反乱では、連邦軍に文民顧問として帯同して鎮圧した。1795年にジェイ条約を論文で擁護して批准させ、この年に財務長官を辞任した。1798年から陸軍の検閲総監となって、新しい連邦軍の軍制を整え、1803年には弁護士としての名声が最高潮に達した。しかしワシントンの死後、連邦党の党首でありながら大統領になる状況は生まれず、アダムズの指名を妨げる工作は党を割って、1800年のジェファーソンの勝利に寄与した。

ニューヨーク法曹界でライバルだったアーロン・バーとは、1791年の上院議員選以来、憎悪の関係にあった。1804年にバーが州知事選に無所属で出馬した際、ハミルトンによるとされる「卑劣な見解」が新聞に載り、バーは謝罪を求めたが拒まれた。決闘は1804年7月11日、三年前にハミルトンの息子フィリップが決闘に敗れたのと同じ、ニュージャージー州ウィホーケンの岩棚で行われ、夜明けにバーの弾が下胸部に当たった。ハミルトンは翌日死去し、マンハッタンのトリニティ教会墓地に葬られた。49歳であった。

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