伝記
ハーリド・イブン・アル=ワリードは、イスラーム初期の正統カリフ時代の武将で、642年に没した。生年は、日本語版の資料が592年、スペイン語版が584年としており、食い違いがある。「アッラーの剣」の異名で知られる。ムハンマドの存命中から、初代カリフのアブー・バクル、第2代カリフのウマルの時代まで、メディナ軍を率い、初期のイスラームの拡大戦争で多大な功績を挙げた。スペイン語版の資料は、歴史上、一度も戦いに負けなかった数少ない将軍の一人と評し、数多くの戦いで、しばしば数に勝る敵に勝利したと述べる。
生まれはマッカ(メッカ)の近くで、ムハンマドと同じクライシュ族の名門マフズーム家の出身である。父のワリードは、同家の長で、「唯一の者」と呼ばれていた。習慣にしたがって幼い頃は遊牧の部族に預けられ、五歳ごろに両親のもとへ戻った。子どもの頃に天然痘にかかり、左の頬に痕が残ったという。父は自ら息子を教育し、勇気、闘志、粘り強さ、気前のよさなど、アラブ人の尊ぶ徳を教え込んだ。マフズーム家はアラビア一の騎手を輩出することで有名で、彼はその中でも最良の騎手の一人となり、剣や弓に加え、槍の扱いに特に優れていた。家は富裕だったが、鍛冶や商人の仕事にも就き、隊商とともにシリアへ赴いて、大きな交易都市を訪れたとされる。
初めはクライシュ族に従う騎兵隊長として、初期のイスラーム軍と戦った。625年のウフドの戦いでは、200の騎兵を率いてイスラーム軍の背後を突き、ムハンマドを負傷させることに成功し、イスラーム側の敗北に決定的な役割を果たした。628年にクライシュ族とムハンマドの間でフダイビーヤの和議が成立すると、マッカ市内にもイスラームの教えが広まり、彼もこのころに改宗した。スペイン語版は、改宗の年を627年か629年としている。改宗後、ムハンマドは彼を司令官に任じ、「アッラーの剣」の称号を与えたという。
629年9月、ムハンマドはザイドを司令官とする軍をシリアへ派遣したが、東ローマ軍の待ち伏せにあって敗れ、ザイドは戦死した。このとき彼は機転を働かせ、潰走する軍をまとめて無事に撤退させた。ムハンマドはその働きに感激し、「アッラーの剣」とたたえたと日本語版は記す。マッカの征服とフナインの戦いでは、遊牧民の部隊を指揮した。ムハンマドの死後は、アブー・バクルから軍権を預けられた。中央アラビアの反乱部族の討伐に向かい、632年のブザーハの戦いと、633年のアクラバの戦いで、反乱の指導者たちを破った。
その後は、イラクのユーフラテス川流域のササン朝の守備隊や、キリスト教徒のアラブ部族と戦い、シリア方面軍の指揮を任された。水のない砂漠の長い地帯を越えるという異例の行軍によって、戦略家としての名声を確かなものにした。アジュナダインとファフル、ダマスカス、そして636年のヤルムークの戦いでの勝利によって、イスラーム軍はシリアの大部分を征服した。のちに、ウマルによって最高指揮官の地位から外され、副官として後任のアブー・ウバイダに仕えたが、やがてキンナスリーンの総督の職も解かれ、642年にメディナかヒムスで没したとされる。伝承は、彼が、イスラームに帰依した部族の人々を不当に処刑したことなどを非難し、その軍事的な名声が個人崇拝になることを、ウマルらは恐れたという。
同じ年に亡くなった人物
- Tulga (642年)
- Domnall Brecc (642年)
- キュネイルス (ウェセックス王) (642年没)
- ヘラクロナス (642年没)
- ヨハネス4世 (ローマ教皇) (642年没)
同じ地域に関係する人物
- Ubay ibn Ka'b (700年没)
- イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタル (691年没)
- ムアーウィヤ (680年没)
- マーリク・ブン・アナス (796年没)
- ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ (632年没)