伝記
ムアーウィヤは、イスラム教の5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位661年~680年)である。生年は603年頃とされるが、イスラム側の伝承は597年、603年、605年などと伝え、確定していない。同名の孫と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。
出身のウマイヤ家はクライシュ族の名門で、父アブー・スフヤーンはマッカ(メッカ)の有力な商人であり、シリア方面へ隊商を送る一方、預言者ムハンマドに激しく敵対した人物であった。母はヒンド・ビント・ウトバである。624年のバドルの戦いでは兄ハンザラや母方の祖父を失った。父はその後、軍の指導者となってウフドの戦いで勝利を収めたが、ムハンマドを倒すには至らなかった。629年には姉妹のラムラがムハンマドと結婚している。630年にムハンマドがマッカを征服すると、ムアーウィヤは家族とともにイスラム教へ改宗し、ムハンマドの書記の一人として仕えた。
ムハンマドの死後、初代カリフのアブー・バクルは兄ヤズィードをシリア方面へ派遣し、ムアーウィヤもその先鋒としてビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いに加わった。637年には第2代カリフのウマルとともに征服直後のエルサレムに入り、その後はシドン、ベイルート、ビブロスなどの沿岸都市の攻略にも加わったとされる。639年にシリアで悪疫が流行し、総督アブー・ウバイダをはじめ多くの将兵が病死した。ウマルはヤズィードに後を任せたが、その兄も640年にダマスクスで病没したため、ムアーウィヤがシリア総督に任じられた。この登用については、ウマルがウマイヤ家を尊重したためとする見方がある一方、疫病の最中にシリアで代わりの人材がいなかったためとする見方もある。以後、640年か641年ごろにカエサリアとアスカロンを落としてパレスチナの征服を完了させたとされ、644年にはアモリオンへの襲撃も行った。さらにキプロス島とロドス島も征服して、シリアに確固たる勢力を築いた。第3代カリフのウスマーンの時代には、ホムスやジャズィーラ地方もその管轄に加わったとされ、有力なカルブ族とも結んで基盤を固めていった。
656年にウスマーンが殺害され、アリーが第4代カリフに就くと、ムアーウィヤはウスマーンの血の復讐を掲げてアリーと対立した。657年前後のスィッフィーンの戦いなどで争い、この戦いの後にアリーは調停を受け入れた。ムアーウィヤはしだいに勢力を広げて、660年にはエルサレムでカリフ就任を宣言した。661年にアリーがハワーリジュ派に殺害され、自身も同派の刺客に襲われたが、これを辛くも退けて単独のカリフとなった。ダマスカスを首都と定め、カリフ位を実質的に世襲とする道を開き、ウマイヤ朝を創始した。
統治の面では、軍の俸給や租税を監督する官庁と勅令を管理する官庁を整えてディーワーン制度を進め、各地の都市や宿場に駅馬を置く駅逓制度を設け、駐留軍の配置など軍事制度も整備した。部族の連合体であったイスラム共同体を、国家として機能させるための努力であった。680年にダマスクスで没した。資料は、同年に後継者となった子のヤズィードのもとでフサインらが殺害されたカルバラーの悲劇が起き、のちのシーア派との深い対立を残したと記す。
同じ年に亡くなった人物
- Al-Hurr ibn Yazid al-Tamimi (680年)
- Ali al-Asghar ibn Husayn (680年)
- バースカラ1世 (680年没)
- アリー・アル・アクバル・イブン・フサイン (680年)
- エブロイン (680年代没)
同じ地域に関係する人物
- ウスマーン・イブン・アッファーン (656年没)
- サフィーヤ・ビント・アブドゥルムッタリブ (640年没)
- マーリク・ブン・アナス (796年没)
- Abu al-As ibn al-Rabi (634年没)
- イブラーヒーム・イブン・アル=アシュタル (691年没)