伝記
マーリク・ブン・アナスは、8世紀のイスラーム法学者で、マーリキー法学派の祖とされる。生涯のほとんどを「預言者の町」マディーナで過ごし、主著『ムワッター』は当時のマディーナの慣習法を示した書である。クライシュ族のタイム・ブン・ムッラを始祖とするタイム部族の一家系に属し、父も祖父も法規範に詳しい知識人であった。生年は不明で、史料の推定にはヒジュラ暦90年から97年(708年〜716年)と開きがある。どのような教育を受けたかもよくわかっていないが、後年の史料に、メッカでラビーア・ブン・ファッルフという人物にフィクフ(預言者を通して示された神の命令を理解すること)を学んだとする話があり、これはありうることとされる。ただし、後の史料になるほど、学んだ師の数は増えていく。
史料から時期を確定できる出来事として、762年にヒジャーズ地方でアリーの一族の支持者が起こした蜂起に巻き込まれた件がある。前年の761年、ハサンの子孫アブドゥッラーの治めるメッカに反乱の気配を感じ取ったアッバース朝のカリフ・マンスールは、アブドゥッラーの息子であるムハンマドとイブラーヒームの兄弟を引き渡す仲介をマーリクに命じた。このことから、マーリクが761年の時点ですでにバグダードにまで知られるほどの名望を得ていたこと、そして中央政府に敵意を持つとは見られていなかったことが推定される。仲介は成功せず、ムハンマドは挙兵した。マーリク自身は挙兵に関わらず家にこもっていたが、預言者モスクで「マンスールに忠誠を誓った者のうち、強制されて誓った者は必ずしもこれに拘束されない」というファトワーを出した。これによって、誓約に縛られて加われずにいた者たちが、たちまち反マンスール勢力に加わったという。
反乱は763年に鎮圧され、マーリクは新任のマディーナの代官ジャアファル・ブン・スライマーンの命令で鞭打ち刑に処された。刑の執行で肩を脱臼して苦しんだが、これがかえって彼への尊敬を高めた。その後はアッバース朝政権と平和な関係を保ったとみられ、タバリーによれば、777年にカリフ・マフディーがメッカの聖域の構成を変える件で意見を求めている。また、没年の796年にはカリフ・ラシードがマディーナを訪れ、『ムワッター』をイスラームの聖典にしたいと所望したが、マーリクがなんとか説得して諦めさせたと伝えられる。この逸話は脚色が過ぎると評されるが、訪問自体は史実であろうとされる。
マーリクは796年にマディーナで病死し、バキー墓地に葬られた。後に墓の上に円蓋の建物が立ったことが、巡礼者の旅行記から確認できる。母の胎内に3年いたという崇敬派の逸話や、若い頃は歌手を志したが母に顔立ちを理由に止められたという批判派の逸話など、伝説めいた話も伝わるが、いずれも史実の保証はない。
『ムワッター』は現在に伝わる法学書の中で最古とされる(ザイド・ブン・アリーの法学書を最古とする説もある)。8世紀当時のマディーナで行われていた慣行や共同体の合意に基づき、それで解決できない問題への理論的基準をつくることも目的とした。アッバース朝初期は基本的な問題でも見解の相違が大きく、法的規範が求められており、マーリクはマディーナの慣習法を成文化・体系化してこれにこたえた。マーリク自身は定本を残さず、内容は弟子たちの口頭の伝承により、のちに筆伝されて15種の異本があったが、現代に伝わるのは2種だけである。この伝承の過程で学派が生まれ、「マーリク法学派」と呼ばれるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- エゼルレッド1世 (796年没)
- ヤアクーブ・イブン・ターリク (796年)
- Hafs (796年)
- オファ (マーシア王) (796年没)
- ヒシャーム1世 (796年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・バーキル (743年没)
- ハサン・イブン・アリー (669年没)
- アブー・サイード・フドリー (693年没)
- ラーディー (940年没)
- ムスアブ・イブン・ウマイル (625年没)