伝記
ヤズデギルド3世は、624年頃に生まれたとされ、651年に没したサーサーン朝最後の皇帝である。在位は632年から651年で、ホスロー2世の孫にあたる。名前は古代ペルシア語の「神聖な存在」と「作られた」の複合語で、「神によって作られた」という意味を表すという。
628年、ホスロー2世が実子のシェーローエ(カワード2世)に廃位され、ホスロー2世とその息子たちが処刑された。この際にシャフリヤールも処刑された。サーサーン家の男子を皆殺しにする決断は帝国に大打撃を与え、ついに回復できなかった。ペルシア系貴族のペルシグ派とパルティア系貴族のパフラブ派の敵対関係も再燃し、国家の富は二分された。カワード2世の即位から数か月後には壊滅的な疫病が西部諸州に広がり、カワード2世を含む人口の半数が死亡した。8歳の息子アルダシール3世が後を継いだが2年後にシャフルバラーズに殺され、そのシャフルバラーズも40日後にクーデターで殺され、ホスロー2世の娘ボーラーンが即位した。ボーラーンは同年のうちに退位させられ、631年に再び君主となるまで次々と新たな王が立った。632年にボーラーンが殺害されると、最大の権力者たちは配下の要求もあって両派の協力に踏み切り、ヤズデギルド3世を皇位に就けて内戦を終わらせた。戴冠式は、初代皇帝アルダシール1世も戴冠した地で挙行され、帝国再興への期待がうかがえる。即位時の年齢には諸説あるが、ほとんどの学者は8歳とみている。
若くして即位した彼には権威が乏しく、実権は軍事指揮官や廷臣、貴族の手にあった。多くの総督が独立を宣言し、硬貨の鋳造から見ても、支配が及んだのは主にペルシグ派の拠点である帝国南西部と南東部にほぼ限られた。北部を地盤とするパフラブ派は彼の硬貨の鋳造を拒み、636年ごろまでスーサでは王位請求者ホスロー4世が独自の硬貨を鋳造していた。研究者レザーハーニーは、首都クテシフォンを含むメソポタミアも掌握できていなかったようだと述べる。東から突厥、西からハザールが侵入するなか、東ローマ帝国との戦争と内戦で軍は弱体化し、ペルシア人は帝国の滅亡が差し迫っていると公言し、自然災害にその兆候を見いだすほどだったという。
633年頃からハーリド・イブン・アル=ワリード率いるアラブ人が西部国境を侵しはじめた。サーサーン朝は派遣した将軍たちが敗れて総督ホルミズドらが戦死し、ヒーラも占領された。636年11月16日から19日のカーディシーヤの戦いで、総大将ロスタム・ファッロフザードらが戦死して軍は壊滅し、ヤズデギルド3世は財宝と約1,000人の家臣を連れて逃れ、クテシフォンは637年に陥落した。ジャルーラーでも敗れて彼はメディアの奥深くへ逃げ、新たな軍を起こしてニハーヴァンドに送ったが、642年の戦いでも大敗し、将軍ペーローズ・ホスローらが戦死して直轄軍が解体され、組織的な抵抗はなくなった。
その後、エスファハーンからエスタフルに逃れて抵抗を試みたが、650年にバスラの総督がパールスに侵攻し、エスタフルは廃墟となって4万人の兵が殺されたという。彼はキルマーンでもサカスターンでも支援を得られず、突厥の援助を求めてメルブへ向かったが、ホラーサーンの人々は抵抗を続ける決断に賛同しなかった。651年、メルブ近郊で小麦粉挽き屋によって暗殺され、約400年続いたイスラーム浸透以前最後のイラン人帝国は滅亡した。
同じ年に亡くなった人物
- バルトリハリ (651年)
- アブー=ダル (651年)
- オズウィン (651年)
- カアブ・アル=アフバール (651年(推定))
- Radoald of Benevento (651年)
同じ地域に関係する人物
- ムカンナア (783年没)
- アフマド・サンジャル (1157年没)
- ホスロー3世 (629年没)
- ユースフ・ハマダーニー (1140年没)
- アブー・サイード・ビン・アビー・ル・ハイル (1049年没)